人物

郭守敬

Guo Shoujing
AD1231年 – AD1316年(享年85・推定)
元重要度 3

概要

天文台と観測機器を作り直し、授時暦を作った。1年を365.2425日とした値は、グレゴリオ暦と同じで、そちらより300年早い。

所属

元

関わったできごと(1)

授時暦AD1281年 · 編纂

本文

郭守敬、字は若思。1231年、華北の邢州(いまの河北省邢台)に生まれた。モンゴルが金を滅ぼす3年前で、華北はまだ戦乱のさなかにあった。育てたのは祖父の郭栄である。郭栄は数学と水利に通じた人で、孫を同郷の学僧・劉秉忠のもとで学ばせた。劉秉忠はのちにフビライ・ハンの側近となり、都の大都を設計した人物である。若い郭守敬は、ここで天文・暦算・地理を身につけた。

郭守敬紀念館の彫像
郭守敬紀念館の彫像Wikimedia Commons Shizhao · CC BY 2.5

世に出たのは水利技師としてだった。1262年、劉秉忠の門下の張文謙の推薦でフビライに会い、華北の水路について6つの案を出した。フビライはその場で採り上げ、以後、郭守敬は河川と運河を扱う役所で働く。黄河の旧河道を調べ、寧夏では荒れていた灌漑水路を立て直した。

1276年、南宋の都臨安が落ちる年に、フビライは暦を作り直すよう命じた。それまで使っていた金の大明暦は、日食や月食の予報がたびたび外れていた。中心になったのは王恂と郭守敬で、儒学者の許衡が加わった。郭守敬が最初に手をつけたのは暦の計算ではなく、器械だった。

伝統の渾天儀は、いくつもの環が入り組み、互いに視界をさえぎる。目盛りが読みにくく、誤差が出やすい。郭守敬はそこから必要な環だけを取り出し、赤道座標と地平座標の器械に分けた。これが簡儀で、開けた構造になった。16世紀後半にティコ・ブラーエが作った器械と発想が近いとよくいわれる。ほかに、半球の内側に像を映して太陽の位置を読む仰儀、高さ40尺(およそ12メートル)の巨大な日時計の柱(高表)なども作った。柱を高くするほど影は長くなり、冬至や夏至の日をより細かく決められる。河南の登封にはこの時代の観星台が残る。

器械をそろえたうえで、観測を全国に広げた。各地27か所に観測所を置き、北極星の高さや昼夜の長さを測らせた。北はシベリアに近い地方、南は南シナ海に及ぶ。広大な領土を持つ元だからできたことだった。この時期、ペルシアのマラーガ天文台から来た天文学者ジャマールッディーンも大都で器械を作っており、郭守敬がその知識に触れた可能性は指摘されているが、どこまで影響したかは分からない。

こうしてできたのが授時暦で、1281年から施行された。1年の長さを365.2425日とした。いまの値との差は26秒ほどにすぎない。グレゴリオ暦への改暦で決まった平均の1年と同じ値で、そちらより300年早い。ただしこの値は、南宋の統天暦がすでに使っていたとされる。授時暦の新しさはむしろ計算の組み立てにあった。過去のある一点まで暦をさかのぼる「上元積年」の計算をやめ、実際の観測年を起点にした。太陽や月の動きの速さの変化は、高次の補間で近似した。

施行の年に王恂が死に、許衡もまもなく死んだ。残った計算表や理論の書物をまとめ上げたのは郭守敬である。1286年には天文をつかさどる太史令になった。

暦を終えると、郭守敬は再び水に戻る。大都は大きな都だったが、江南から米を運ぶ大運河(大運河の完成)の終点は東の通州で止まり、そこから都までは陸路だった。郭守敬は1291年、都の北西の山すそにある白浮泉などの水を集めて都へ引き、通州まで船が通れる運河を作る案を出した。地形の高低を測り、水門を連ねて水位を保つ。工事は1293年に完成し、フビライは「通恵河」と名づけた。都の中の積水潭に、南からの船が並んだという。この水系は、いまの北京の川や湖の元になっている。

1303年、70歳を過ぎた官吏は退くよう命じられたが、郭守敬だけは例外とされ、とどめ置かれた。1316年、86歳で死んだ。

授時暦は明でも名を大統暦と改めてほぼそのまま使われ、明の終わりの1644年まで続いた。一つの暦が360年以上使われたことになる。本人の書いた天文書の多くは失われ、自分の名を残そうとした形跡も少ない。残ったのは器械と運河と暦だった。20世紀になって、小惑星や、中国が造った大型の分光望遠鏡に彼の名が付けられている。

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