ロンドン動物園

概要
王侯の見世物としての動物のコレクションは古い。ロンドン塔の獣舎は600年続いた。1826年、スタンフォード・ラッフルズらがロンドン動物学会を作り、1828年、リージェンツ・パークに「動物学的庭園」を開いた。当初は会員だけの研究施設で、一般公開は1847年から。zoological garden が略されて zoo という語になった。ダーウィンは1838年、ここでオランウータンのジェニーを観察し、その表情と癇癪を記録している。彼が人と動物の連続性を確信した場面の一つとされる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
権力者が珍しい獣を集めるのは、古くからのことである。古代エジプトのハトシェプストは、南方のプントの国へ船団を送り、ヒヒなどの珍しい動物を連れ帰らせたと記録に残る。アステカの都テノチティトランには、王の広大な獣舎があり、征服に加わったスペイン人がその規模に驚いて書き留めている。イングランドでは、13世紀からロンドン塔に王の獣舎が置かれ、それは600年近く続いた。1235年には神聖ローマ皇帝からライオンかヒョウとされる大きな猫の仲間が3頭贈られ、1252年にはノルウェー王からシロクマが届いた。シロクマは綱をつけられてテムズ川で魚を捕ったという。1255年にはフランス王からアフリカゾウが贈られ、年代記作家マシュー・パリスがその姿を写生した。実物を見て描かれた象の絵として、ヨーロッパで最も早いものの一つである。
塔の獣舎は、やがて一般の見物客にも開かれた。18世紀には、入場料を払う代わりに、ライオンの餌になる犬か猫を一匹持って来てもよかったと伝えられる。こうした獣舎の目的は、権力の誇示と見世物だった。動物を研究するための場所ではなかった。

1826年、ロンドンで動物学会が生まれた。中心になったのは、シンガポールの建設で知られる植民地の行政官で、熱心な博物学者でもあったスタンフォード・ラッフルズと、化学者で王立協会の会長だったハンフリー・デーヴィー(安全灯)らである。学会は、動物界を研究して学問を進めること、役に立つ動物や珍しい動物を生きたまま集めることを目的に掲げた。ラッフルズは学会の創設からまもなくの1826年7月に亡くなった。東南アジアで集めた膨大な標本は、帰国の船の火災ですでに失われていた。
1828年4月、ロンドン北部のリージェンツ・パークの一角に、学会の「動物学的庭園」が開かれた。設計は建築家デシマス・バートンで、サルの小屋、クマの穴、鳥の檻などが並んだ。入れるのは学会の会員と、その紹介状を持つ人だけだった。会費は高く、労働者にはとても手が届かない。ここは見世物ではなく科学の施設だ、というのが学会の自負だった。死んだ動物は解剖され、標本にされ、研究に使われた。

しかし、研究施設を維持するには金がかかる。財政に苦しんだ学会は、1847年から一般の人々にも入場を認め、1シリングの入場料を取った。動物園は大衆の娯楽の場になっていった。長い「動物学的庭園」という呼び名は縮められて「ズー」になった。1860年代に流行した、日曜日には動物園を散歩するのがいちばん、という意味の寄席の歌が、この呼び名を広めたと言われる。以来、英語では世界中の動物園をこう呼ぶ。
動物園は新しい見せ方も次々に試した。1849年には爬虫類を集めた建物を、1853年には水の生き物を水槽で見せる「魚の家」を開いた。一般の人が水槽の中の魚を眺める施設としては、世界で最も早いものの一つで、これが英語で水族館を表す言葉を広めるきっかけにもなった。のちには昆虫を見せる建物も作られた。

人気者が次々に現れた。1835年に来たチンパンジーのトミーは、イギリスに生きて届いた最初のチンパンジーとされ、船乗りの服を着せられて見物されたが、数か月で死んだ。1837年に来たオランウータンのジェニーも服を着せられ、茶を飲まされた。のちにジェニーを見たヴィクトリア女王は、恐ろしく、痛ましく、不快なほど人間に似ている、という意味のことを日記に書いている。1850年には、エジプトから運ばれたカバのオベイシュが来た。ヨーロッパに生きたカバが来たのはローマ時代以来とされ、入場者は大きく増え、カバにちなんだ舞曲まで作られた。1865年から暮らしたアフリカゾウのジャンボは、子どもたちを背に乗せて歩き、絶大な人気を集めた。1882年、動物園がジャンボをアメリカの興行師バーナムに売ると、イギリス中から抗議が起き、子どもたちが女王に嘆願の手紙を送り、裁判まで起こされた。それでもジャンボは海を渡り、1885年、カナダで列車にはねられて死んだ。「巨大な」という意味の英語ジャンボが広まったのは、この象の名からである。
この動物園で、一人の若い博物学者が大事な観察をした。1838年3月、ビーグル号の航海から帰って1年あまりのチャールズ・ダーウィンが、オランウータンのジェニーを見に来た。飼育係がリンゴを見せて与えずにいると、ジェニーは仰向けに寝転がって手足をばたつかせ、泣きわめいた。だだをこねる人間の子どもそっくりだった。飼育係がいい子にしていればあげると言うと、泣きやんでしばらく我慢し、それからリンゴを受け取った。ダーウィンは鏡を見せ、ジェニーが鏡の中の像に驚き、じっと見つめる様子も書き留めた。そしてノートに、人間が自分の優越を誇るなら、飼われているオランウータンを見に行くがよい、という意味の言葉を記している。

この時期のダーウィンのノートには、人間と動物の感情や表情についての観察が集中している。人と動物は切れ目なくつながっているのではないか。彼はそれを確かめるのに20年以上をかけ、1871年に人間の由来を論じた本を、翌1872年に人と動物の感情の表れ方を論じた本を出した(『種の起源』はその間の1859年である)。動物園で、彼は自分の体を使った実験もしている。厚いガラスの向こうから毒蛇が飛びかかってくると、安全だと頭で分かっていても、思わず飛びのいてしまう。恐れが理性より深いところで働いていることを、彼は自分で確かめた。
動物園という仕組みは各地に広がった。ウィーンのシェーンブルン宮殿の動物園は、皇帝の獣舎として1752年に始まり、現存する最古の動物園とされる。パリでは革命で没収された王侯の動物を受け入れて、1793年に植物園の中に動物舎ができた。ベルリンは1844年、アメリカのフィラデルフィアは1859年に設立が認められて1874年に開園し、日本では1882年に上野動物園が開かれた。

19世紀の動物園は、帝国の仕掛けでもあった。植民地から送られてきた動物を首都に並べることは、支配の広がりを目に見える形にした。そして、人間も見世物にされた。1870年代から1930年代にかけて、ヨーロッパやアメリカの動物園や博覧会では、アフリカやアジア、極北、太平洋の人々を「原住民の村」に住まわせて見物させる展示が行われた。1906年、ニューヨークのブロンクス動物園は、コンゴから連れて来られた青年オタ・ベンガを、オランウータンと同じ檻に入れて見せた。黒人の牧師たちが激しく抗議して展示は中止されたが、彼は1916年に自ら命を絶った。1958年のブリュッセル万国博覧会にも「コンゴの村」があった。
20世紀に入ると、動物園の姿は少しずつ変わった。1907年、ハンブルクの動物商カール・ハーゲンベックは、檻の柵の代わりに堀で動物と客を隔て、動物が自然の景色の中にいるように見せる動物園を開いた。その後、動物の行動の研究が進むと、動物が本来の行動をとれるよう環境を工夫することが重んじられるようになった。1970年代以降は、絶滅しかけた動物を殖やし、種を残すことが、動物園の大きな目的として掲げられるようになった。

実際、動物園のおかげで絶滅を免れた動物もいる。モウコノウマは野生ではいったん姿を消したが、動物園で殖やされた馬がモンゴルの草原に戻された。中国で姿を消したシフゾウは、イギリスの貴族の屋敷で飼われていた群れから復活した。アラビアオリックスやカリフォルニアコンドルも、飼育下での繁殖が野生への復帰を支えた。
一方で、批判も根強い。象や大型の猫の仲間のように、野生では広い範囲を動き回る動物にとって、飼育の場所はあまりに狭い。同じ動きを延々と繰り返すのは、長く続くストレスの表れとされる。繁殖の計画に合わない「余った」動物をどうするかという問題もある。2014年、コペンハーゲンの動物園が、遺伝的に繁殖に使えないとされた若いキリンを殺し、人前で解体してライオンに与えたことは、世界的な論争になった。野生に戻せる例は限られていて、種の保存の効果は小さいという指摘もある。そもそも、教育や保護のために動物を閉じ込めることは許されるのか、という問いは消えていない。

ロンドン動物園は、いまもリージェンツ・パークにある。1934年に建てられたコンクリートのらせんの斜路を持つペンギンのプールは、近代建築の傑作とされたが、硬い床がペンギンの足を傷めることが分かり、2004年からペンギンは別の場所に移された。建物は歴史的な建造物として残されている。そこにペンギンはいない。