ブラーマグプタ
概要
ラージャスターンのビッラマーラ。ウッジャインの天文台の長。30歳で『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(正しく確立されたブラフマーの教説)、25章、詩の形。ゼロと負の数の演算規則、二次方程式の解、円に内接する四辺形の面積の公式、ペル方程式、天文計算。773年、バグダードに伝わって『シンドヒンド』としてアラビア語に訳され、フワーリズミーが読んだ。
関わったできごと(1)
ブラーマグプタのゼロAD628年 · 書いた本文
ブラーマグプタの生まれた年が分かるのは、本人が書き残しているからである。主著の中で、シャカ暦550年、つまり西暦628年に、30歳でこの書を著したと記している。ここから598年の生まれとされる。父の名はジシュヌグプタ。いまのラージャスターン州の西南部、ビンマールにあたるビッラマーラの町の人で、この地を治めたヴィヤーグラムカという王の時代に書いたとも記している。

彼の生涯について分かっていることは、これでほとんどすべてである。後世の注釈者たちは、彼をビッラマーラの師と呼んだ。中部インドのウッジャインの天文台の長を務めたともいわれる。ウッジャインは古くからインドの天文学の中心で、インドの天文学者たちは経度の基準の線がこの町を通ると考えていた。ただ、彼がウッジャインにいたことを裏づける同時代の史料はない。
当時のインドで数学は、天文学の一部だった。日食や月食を予言し、惑星の位置を計算し、暦を作るために、精密な計算の方法が求められた。グプタ朝の黄金時代の時代には、0から9の数字と位取りで数を書く記数法も整っていた(十進法と位取りの記数法)。5世紀末にはアーリヤバタが、韻文の天文書で天文と数学の体系をまとめていた。ブラーマグプタはその次の世代の、最も大きな数学者である。
628年に完成した『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ(正しく確立されたブラフマーの教説)』は、24章(数え方により25章)、およそ1000の詩節からなるサンスクリットの韻文で書かれている。覚えて唱えるための形で、証明は書かれていない。前半は天文学で、惑星の平均の動きと実際の位置、日食と月食、月の満ち欠け、天文の器具などを扱う。その中に、算術を扱う第12章と、代数を扱う第18章が置かれている。
この本は、ゼロを数として扱い、計算の規則を体系的に定めた最初の書物として知られる(ブラーマグプタのゼロ)。彼は正の数を「財産」、負の数を「借金」と呼び、規則を言葉で並べた。借金から無を引けば借金、財産から無を引けば財産、無から無を引けば無。無に何を掛けても無。財産と借金を掛ければ借金になり、借金と借金を掛ければ財産になる。ただし、ゼロで割ることについては、ゼロをゼロで割ればゼロだとするなど、今日の数学とは違う答えも書いている。この難問は、のちのインドの数学者たちが考え続けることになる。
代数では、未知数の二乗を含む二次方程式を解く手順を、今日の解の公式にあたる形で言葉にして与えた。未知数が二つ以上ある方程式も扱い、色の名前を未知数の記号にあてて区別した。
幾何学では、円に内接する四角形の面積を、4辺の長さだけから求める公式を示した。辺の長さの和の半分から各辺を引いた4つの数を掛け合わせ、その平方根を取る。三角形の面積を3辺から出すヘロンの公式を、四角形に広げた形で、いまも「ブラーマグプタの公式」と呼ばれている。
最も驚かれているのは、整数の答えを求める問題の解き方である。ある数の二乗から、別の数の二乗の92倍を引くと1になる。そのような整数の組を見つけよ、という問題に、彼は1151と120という答えを示した。手当たりしだいに試して見つかる数ではない。彼は、すでに知っている二つの答えを組み合わせて新しい答えを作る方法を考え出していた。この問題を1年のうちに解ける者は数学者である、と彼は挑戦の言葉を添えている。彼の方法は、12世紀のバースカラ2世らによって一般的な解き方へと仕上げられた。ヨーロッパで同じ種類の問題が取り上げられたのは、1657年にピエール・ド・フェルマーが仲間の数学者たちに挑戦状として出したときで、およそ1000年後のことだった。
665年、67歳ごろの彼は、もう一冊の天文書『カンダカーディヤカ』を書いた。暦を作る人が手早く使えるようにまとめた実用の便覧である。この中で、表の値と値の間を細かく埋める補間の計算に、差のさらに差を使う方法を用いた。
彼は先人に遠慮しなかった。アーリヤバタは、天が回って見えるのは地球が自ら回っているからだと書いていたが、ブラーマグプタはこれを退け、アーリヤバタの説を名指しで厳しく批判した。地球が回っているのなら、高い所にあるものはなぜ落ちてこないのか、という当時よく持ち出された疑問も、そうした議論の中で語られた。一方で、物が地面に落ちるのは、水が低い所へ流れるのと同じく、物を引きつけるのが大地の本性だからだ、という意味の言葉が彼のものとして伝わっている。この言葉は11世紀のペルシアの学者アル=ビールーニーが、インドについての書物の中で引用している。
彼の本は、インドの外へも渡った。8世紀の後半、インドの西北のシンドから来た使節が、バグダードの建設を果たしたばかりのアッバース朝のカリフ、マンスールの宮廷に、インドの天文書を持ち込んだ。これがアラビア語に訳され、『シンドヒンド』と呼ばれて、イスラム世界の天文学の出発点の一つになった。その原本はブラーマグプタの本だったと考えられている。9世紀にフワーリズミーは、インドの数字と位取りによる計算法を解説する本を書き、これが12世紀にラテン語に訳されて、ヨーロッパに位取りの記数法とゼロを伝えた。13世紀初めのレオナルド・フィボナッチの『算盤の書』もこの流れの上にある。私たちが「アラビア数字」と呼んでいる数字は、こうしてインドからバグダードを経てヨーロッパへ伝わった。
彼が死んだのは668年ごろと推定されている。それ以上のことは分からない。顔も、暮らしぶりも、弟子の名も伝わっていない。残っているのは、1000の詩節に折り込まれた計算の規則だけである。