概要
柳の樹皮が熱と痛みに効くことは古くから知られ、そこからサリチル酸が取り出されていた。だがそのままでは胃を荒らし、飲み続けられない。バイエル社のフェリックス・ホフマンが、分子の一部をアセチル基に置き換えた。効き目は残り、胃への負担が減る。父のリウマチのためだったという話が伝わるが、上司アルトゥル・アイヒェングリュンが自分の指示だったと後に主張した。彼はユダヤ人で、ナチス期に会社の歴史から名前を消された。世界で最も多く飲まれた薬の、功績の帰属は、いまも定まっていない。
場所
51.26°N 7.15°E · ドイツ・ヴッパータール
本文
**柳**。
(——**古い**。
〈**——**エーベルス・パピルス**(BC16世紀ごろ)に、**柳の葉**の記述がある**。
**——**ヒポクラテス**が、**柳の樹皮の煎じ汁**を、**産後の痛みに、使ったと伝えられる**。
**——**そして、**中国でも、日本でも、**柳の枝が、歯の痛みに、使われた**。
**〈——「楊枝」の「楊」は、柳である。〉〉**
**——**1763年**。
〈**——**エドワード・ストーン**(イギリスの聖職者)が、**王立協会に、報告した**。
**——**柳の樹皮を、**乾かして、粉にする**。
**——**五十人の、**熱のある患者に、与えた**。
**——**効いた**。
**〈——彼の理屈は、**間違っていた**。**
**——「湿った土地に育つ木は、**その土地の病に効く**はずだ」。**
**——結論だけが、正しかった。〉〉)**
**取り出す**。
(**(1)**1828年**。
〈**——**ヨハン・ブフナー**(ミュンヘン)が、**苦い結晶を、取り出した**。
**——**「サリシン」**と名付けた**。
**〈——ラテン語のsalix(柳)から。〉〉**
**(2)**そして、**1838年**。
〈**——**ラファエレ・ピリア**(イタリア)が、**サリシンから、**サリチル酸**を、作った**。〉
**(3)さらに、**1853年**。
〈**——**シャルル・ジェラール**(フランス)が、**アセチルサリチル酸**を、合成している**。
**——**不純で、**安定しなかった**。
**——**そして、**先へ、進まなかった**。〉
**(4)そして、**1874年**。
〈**——**フェノールから、**サリチル酸を、大量に作る方法**(コルベ=シュミット反応)が、工業化された**。
**——**安くなった**。
**——**そして、**広く、使われた**。〉)
**胃**。
(——**サリチル酸は、**効く**。
〈**——**熱を下げ、**痛みを鎮め、**炎症を抑える**。
**——**リウマチに、**特に、使われた**。〉
**——**だが**。
〈**(1)**味が、**耐えがたい**。
**(2)**そして、**胃が、荒れる**。
**〈——吐き気。**
**——胃の痛み。**
**——出血することもある。〉**
**(3)さらに、**続けて飲めない**。
**〈——リウマチは、**続けて飲まなければ、意味がない**。〉〉)**
**1897年**。
(——**エルバーフェルト**。
〈**——**バイエル社**の、**染料部門から出発した会社**である**。
**——**その研究室**。〉
**——**フェリックス・ホフマン**(1868〜1946年)。
〈**——**8月10日の実験ノート**に、**アセチルサリチル酸の合成が、記されている**。
**——**サリチル酸の、**水酸基**を、**アセチル基**に、置き換える**。
**——**純度が高く、**安定していた**。〉
**——**何が、変わったのか**。
〈**——**胃の中では、**そのまま、通る**。
**——**そして、**体の中で、**サリチル酸に、戻る**。
**——**効き目は、**残り、**負担が、減る**。
**〈——「プロドラッグ」**という考え方の、早い例である。〉〉**
**——**名前**。
〈**——**アセチル(Acetyl)の**A**。
**——**そして、**スピラエア**(セイヨウナツユキソウ、サリチル酸を含む植物)の**spir**。
**——**さらに、**当時の薬名によくあった語尾**in**。
**——**「Aspirin」**。〉)
**誰の功績か**。
(——**長く、**ホフマンの話**として、語られてきた**。
〈**——**父が、**リウマチで、苦しんでいた**。
**——**サリチル酸が、**飲めない**。
**——**だから、**息子が、**飲めるものを、作った**。
**——**美しい話である**。〉
**——**1949年**。
〈**——**アルトゥル・アイヒェングリュン**(1867〜1949年)が、**論文を書いた**。
**——**「アスピリンは、**私の指示で、**ホフマンが、合成した**」。
**——**自分の名が、**会社の歴史から、消えている**ことを、指摘した**。〉
**——**彼は、**ユダヤ人である**。
〈**——**ナチス期に、**会社を、追われた**。
**——**財産を、**奪われた**。
**——**そして、**1944年、**テレージエンシュタットの収容所に、送られた**。
**〈——七十七歳。**
**——生き延びた。〉**
**——**論文を書いた、**その年に、死んだ**。〉
**——**1999年**。
〈**——**ウォルター・スニーダー**が、**バイエルの社内文書を、調べ直した**。
**——**アイヒェングリュンの主張を、**支持する**という結論を、出した**。
**——**バイエル社は、**これを、認めていない**。〉
**——**つまり**。
〈**——**世界で最も多く飲まれた薬の、**功績の帰属**が、
**——**百年以上、**定まっていない**。
**——**そして、**その定まらなさに、**人種の政策が、関わっている**。〉)
**どう効くのか**。
(——**分かったのは、**七十年以上、後**である**。
〈**——**1971年、**ジョン・ベイン**。
**——**プロスタグランジン**の合成を、**阻害する**。
**〈——シクロオキシゲナーゼ(COX)という酵素を、**不可逆に、塞ぐ**。〉**
**——**そして、**1982年、**ノーベル賞**。〉
**——**プロスタグランジンは**。
〈**——**炎症を、**起こす**。
**——**痛みの感じやすさを、**上げる**。
**——**熱を、**上げる**。
**——**そして、**血小板を、**固まらせる**。〉
**——**最後の一つ**。
〈**——**だから、**少量のアスピリンが、**心筋梗塞と脳梗塞を、防ぐ**。
**——**1970年代から、**大規模な試験が、行われた**。
**——**痛み止めとして生まれた薬が、**血の薬になった**。
**〈——ただし、**出血の危険もある**。**
**——「健康な人が、予防で飲むべきか」は、**近年、否定的な結果が続いている**。〉〉)**
**残ること**。
(——**柳の樹皮から、**三千年以上**。
〈**——**効くことは、**ずっと、知られていた**。
**——**取り出したのが、**十九世紀**。
**——**飲めるようにしたのが、**1897年**。
**——**なぜ効くのかが、**分かったのが、**1971年**。〉
**——**順番が、**逆である**。
〈**——**仕組みを知ってから、**薬を作った**のではない。
**——**効くものを、**まず、使った**。
**——**そして、**百年後に、**理由を、知った**。〉
**——**そして**。
〈**——**痛みを、**日常的に、消せるようになった**。
**——**医者にかからずに、**棚から取って、飲める**。
**——**その便利さが、**次の段では、**別の薬で、繰り返される**。
**——**[[opioid-crisis]]**。〉)**