できごと

『発微算法』

Hatsubi Sanpo
AD1674年
重要度 3
ロシア帝国スペイン帝国中央アジアの諸ハン国清チベットチュクチ明の滅亡後の軍閥アユタヤ朝Avaシャン諸邦Koryaks日本大越朝鮮王朝Itelmenラオスの諸国大越フィリピンカンボジアLan NaアイヌモシリAD1674年江戸
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1674年の版図を描いています(21勢力)。

概要

和算を代数の水準へ進めた。のちの『解伏題之法』で示した行列式にあたる考えは、ライプニッツとほぼ同時期に、互いを知らないまま到達している。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

関孝和AD1642年頃(1637年説もある)–AD1708年12月5日 · 著者

本文

江戸時代の初め、日本の数学は大きく変わりつつあった。1627年に出た吉田光由の塵劫記は、そろばんの使い方から利息の計算、面積や体積の求め方までを絵入りで解説し、何度も版を重ねて広く読まれた。数学の本が、町人や武士の手に届く商品になった。

その頃、数学の本には変わった習わしがあった。本の終わりに、答えを付けない問題を載せておく。読者への挑戦状で、「遺題」と呼ばれる。次の誰かがそれを解いて自分の本に答えを載せ、その本の終わりにまた新しい遺題を出す。こうして問題が本から本へ受け継がれ、難しさが競い合うように上がっていった。

関孝和の肖像
関孝和の肖像Wikimedia Commons upload by AMorozov · Public domain

1671年、沢口一之が『古今算法記』を出した。沢口は、中国の元の時代の数学書から学んだ「天元術」を使いこなしていた。天元術は、算木という小さな棒を盤の上に並べて方程式を表し、解く方法になる。強力だが、扱える未知数は一つだけだった。沢口は本の終わりに15の遺題を載せた。いずれも、未知数がいくつも絡み合い、天元術ではとても手に負えない問題だった。

3年後の1674年、その15問すべてに答えたのが、関孝和の『発微算法』だった。関孝和は、甲府藩の徳川家に勘定方として仕える武士で、この本が生前に出版した唯一の著作になる。

ベルヌーイ数や二項係数について書かれた『括要算法』(1712年)の頁
ベルヌーイ数や二項係数について書かれた『括要算法』(1712年)の頁Wikimedia Commons Seki Kowa · Public domain

関がしたのは、算木を盤に並べる代わりに、紙の上に式を書くことだった。縦の線の脇に、未知数や係数を漢字で書き添えていく。この書き方を傍書法という。紙に書けば、いくつもの未知数を同時に扱える。式を組み合わせて未知数を一つずつ消していき、最後に一つの未知数だけの方程式にまとめる。のちに点竄術と呼ばれ、和算の土台になった方法の始まりになる。

ただし『発微算法』は、それぞれの問題について、最後にたどり着いた方程式を示すだけで、そこに至るまでの過程をほとんど書いていなかった。問題によっては、とてつもなく次数の高い方程式になるとだけ記されている。

これが批判を呼んだ。1680年、佐治一平という数学者が、関の答えには誤りがあると非難する本を出した。過程が書かれていないので、正しいかどうか誰にも確かめられない。関自身は反論しなかった。代わりに、関の弟子の建部賢弘が、1685年に『発微算法演段諺解』を出し、関の答えに至る途中の計算を一つ一つ書き起こして、関の方法の正しさを示した。

関は、この方法をさらに押し進めた。1683年ごろにまとめた『解伏題之法』では、いくつもの式から未知数を消すときに、係数を格子状に並べて決まった規則で掛け合わせる計算を示した。これは、ヨーロッパでいう行列式にあたる考え方になる。ドイツのゴットフリート・ライプニッツが同じ考えを手紙に書いたのは1693年で、関のほうが少し早い。二人は互いの存在を知らなかった。関の業績の全体は関孝和と和算に譲る。

関の門人たちは関流と呼ばれ、和算の最大の流派になった。建部賢弘は円周率を40桁あまりまで正しく求め、円や球を無限に続く式で表す円理を開いた。和算は武士だけでなく、商人や農民のあいだにも広まり、各地の寺社に、解いた問題を描いた額、算額を奉納する習わしも生まれた。趣味として、これほど広く数学が楽しまれた社会は、世界でも珍しい。

その一方で、和算は外の世界とつながらなかった。結果は流派の秘伝とされることが多く、証明を積み上げて体系を作るより、難問を解く技が競われた。微分や積分に近い考えにまで達しながら、物理学や工学と結びつくことはなかった。1872年の学制で、学校で教える数学は西洋の数学と定められ、和算は急速に姿を消していった。

それでも、算木から紙の上の式へ、という一歩は、日本の数学の歩みを変えた。『発微算法』は、その一歩が初めて本の形で示された本になる。

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