『発微算法』
概要
和算を代数の水準へ進めた。のちの『解伏題之法』で示した行列式にあたる考えは、ライプニッツとほぼ同時期に、互いを知らないまま到達している。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
関孝和AD1642年頃(1637年説もある)–AD1708年12月5日 · 著者本文
江戸時代の初め、日本の数学は大きく変わりつつあった。1627年に出た吉田光由の塵劫記は、そろばんの使い方から利息の計算、面積や体積の求め方までを絵入りで解説し、何度も版を重ねて広く読まれた。数学の本が、町人や武士の手に届く商品になった。
その頃、数学の本には変わった習わしがあった。本の終わりに、答えを付けない問題を載せておく。読者への挑戦状で、「遺題」と呼ばれる。次の誰かがそれを解いて自分の本に答えを載せ、その本の終わりにまた新しい遺題を出す。こうして問題が本から本へ受け継がれ、難しさが競い合うように上がっていった。

1671年、沢口一之が『古今算法記』を出した。沢口は、中国の元の時代の数学書から学んだ「天元術」を使いこなしていた。天元術は、算木という小さな棒を盤の上に並べて方程式を表し、解く方法になる。強力だが、扱える未知数は一つだけだった。沢口は本の終わりに15の遺題を載せた。いずれも、未知数がいくつも絡み合い、天元術ではとても手に負えない問題だった。
3年後の1674年、その15問すべてに答えたのが、関孝和の『発微算法』だった。関孝和は、甲府藩の徳川家に勘定方として仕える武士で、この本が生前に出版した唯一の著作になる。

関がしたのは、算木を盤に並べる代わりに、紙の上に式を書くことだった。縦の線の脇に、未知数や係数を漢字で書き添えていく。この書き方を傍書法という。紙に書けば、いくつもの未知数を同時に扱える。式を組み合わせて未知数を一つずつ消していき、最後に一つの未知数だけの方程式にまとめる。のちに点竄術と呼ばれ、和算の土台になった方法の始まりになる。
ただし『発微算法』は、それぞれの問題について、最後にたどり着いた方程式を示すだけで、そこに至るまでの過程をほとんど書いていなかった。問題によっては、とてつもなく次数の高い方程式になるとだけ記されている。
これが批判を呼んだ。1680年、佐治一平という数学者が、関の答えには誤りがあると非難する本を出した。過程が書かれていないので、正しいかどうか誰にも確かめられない。関自身は反論しなかった。代わりに、関の弟子の建部賢弘が、1685年に『発微算法演段諺解』を出し、関の答えに至る途中の計算を一つ一つ書き起こして、関の方法の正しさを示した。
関は、この方法をさらに押し進めた。1683年ごろにまとめた『解伏題之法』では、いくつもの式から未知数を消すときに、係数を格子状に並べて決まった規則で掛け合わせる計算を示した。これは、ヨーロッパでいう行列式にあたる考え方になる。ドイツのゴットフリート・ライプニッツが同じ考えを手紙に書いたのは1693年で、関のほうが少し早い。二人は互いの存在を知らなかった。関の業績の全体は関孝和と和算に譲る。
関の門人たちは関流と呼ばれ、和算の最大の流派になった。建部賢弘は円周率を40桁あまりまで正しく求め、円や球を無限に続く式で表す円理を開いた。和算は武士だけでなく、商人や農民のあいだにも広まり、各地の寺社に、解いた問題を描いた額、算額を奉納する習わしも生まれた。趣味として、これほど広く数学が楽しまれた社会は、世界でも珍しい。
その一方で、和算は外の世界とつながらなかった。結果は流派の秘伝とされることが多く、証明を積み上げて体系を作るより、難問を解く技が競われた。微分や積分に近い考えにまで達しながら、物理学や工学と結びつくことはなかった。1872年の学制で、学校で教える数学は西洋の数学と定められ、和算は急速に姿を消していった。
それでも、算木から紙の上の式へ、という一歩は、日本の数学の歩みを変えた。『発微算法』は、その一歩が初めて本の形で示された本になる。