概要
セーヴルの金庫にある金属の塊が、世界の質量の基準だった。しかしその原器は、同時に作られた複製と比べて百年で五十マイクログラムほどずれていた。原器が変われば、定義上、宇宙の全質量が変わることになる。2018年の国際度量衡総会は、プランク定数の値を定義として固定し、キログラムをそこから導くことに決めた。アンペア、ケルビン、モルも同時に定数で定義され、七つの基本単位すべてが人工物から離れた。
場所
48.80°N 2.12°E · フランス
本文
**塊**。
**セーヴル、国際度量衡局の金庫**。
**三重のガラスの鐘の中に、白金イリジウムの円柱がある**。
**高さ39ミリ、直径39ミリ**。
**それが、1キログラムだった**。
(——**「だった」**。
**定義そのものが、これだったからである**。
**「1キログラムとは、国際キログラム原器の質量である」**。
〈**つまり——この塊が、どう変わろうと、それは常に1キログラムである**。
**もし、塊が重くなれば、宇宙の他のすべてが、定義上、軽くなる**。〉)
**ずれ**。
**1889年、原器と同時に、複製が作られた**。
(**同じ材料、同じ形、同じ工程**。
**各国に配られ、そして、BIPMにも「公式の複製」が数本残された**。)
**そして、比べた**。
(**1889年、1946年、1989〜91年**。
——**三回である**。**滅多に、出さない**。)
**結果**。
**原器と複製が、少しずつ、離れていった**。
(——**約100年で、平均して約50マイクログラム**。
〈**5,000万分の1**。
**指紋一つより、はるかに軽い**。〉
**そして——どちらがずれたのか、分からない**。
**原器が軽くなったのか、複製が重くなったのか**。
**比べる相手が、それしか無いからである**。
〈**原因の候補**——表面の汚れ、洗浄による摩耗、水銀の吸着、金属内部の変化。
**確定していない**。〉)
**なぜ、それが問題か**。
**(1)他の単位が、これに依存していた**。
(**モル**——キログラムを含む定義だった。
**アンペア**——力の定義を通じて、キログラムに依存した。
**カンデラ**——ワットを通じて、依存した。
**つまり——七つの基本単位のうち、四つが、あの金属の塊に、ぶら下がっていた**。)
**(2)そして、原理の問題**。
(**「あらゆる時代に、あらゆる人々に」**。
——**革命期の、あの標語である**。
**人が作った物が、基準であるかぎり、それは失われうる**。
**火災。地震。戦争**。
〈**もし、原器が壊れたら**。
——**そのときは、複製から復元するしかない**。**そして、それは、もはや同じではない**。〉)
**方法**。
**二つの道が、追われた**。
**(1)ワット天秤**(キッブル天秤)。
(——**イギリスのブライアン・キッブルが、1975年に考案した**。
**電磁力と、重力を、釣り合わせる**。
**そして、その測定を、二つの量子効果に結びつける**。
〈**ジョセフソン効果**(電圧)と、**量子ホール効果**(抵抗)。
**この二つは、いずれもプランク定数と電気素量で表される**。〉
——**つまり、質量を、プランク定数で測ることができる**。)
**(2)アヴォガドロ計画**(シリコン球)。
(——**シリコン28だけを、極端に高い純度で集める**。
〈**ロシアの遠心分離施設で濃縮された**。〉
**それを、単結晶にして、**完全な球**に磨く**。
——**この球は、「人類が作った、最も丸い物体」の一つ**と呼ばれた。
〈**直径93.7ミリ。真球からのずれが、数十ナノメートル**。
**地球の大きさに拡大すると、山と谷の差が数メートルに相当する**。〉
**球の体積と、結晶の格子定数から、原子の数を数える**。
**そして、質量を割る**。
——**これで、アヴォガドロ定数が求まり、プランク定数に換算できる**。)
**そして、二つの方法の値が、一致した**。
(——**2017年、CODATAが、最終的な値を確定した**。
**十分な精度で、複数の独立な測定が、揃った**。)
**決定**。
**2018年11月16日**。
**フランス、ヴェルサイユ**。
**第26回国際度量衡総会**。
**全会一致で、可決**。
(**参加国の代表が、投票した**。
——**そして、拍手が起きた**。)
**施行——2019年5月20日**。
(**メートル条約の署名の日、144年後の同じ日**である。)
**新しい定義**。
**「キログラムは、プランク定数 h の値を 6.62607015×10⁻³⁴ J s と定めることによって定義される」**。
(——**この数値は、もう、測る対象ではない**。
**定義値である**。**誤差が、ゼロになった**。
〈**代わりに、これまで誤差の無かった原器の質量が、いまや「測る対象」になった**。
**——ル・グラン・Kは、いま、約1キログラムの、ただの金属である**。**その質量には、誤差がある**。〉)
**同時に、三つ**。
- **アンペア**——**電気素量** e = 1.602176634×10⁻¹⁹ C。 - **ケルビン**——**ボルツマン定数** k = 1.380649×10⁻²³ J/K。 - **モル**——**アヴォガドロ定数** N_A = 6.02214076×10²³ /mol。
(**そして、既に定数で定義されていたもの**。
**秒**——セシウム133の遷移周波数(1967年)。
**メートル**——光速度(1983年)。
**カンデラ**——発光効率(1979年)。
**——これで、七つ、すべてが、定数になった**。)
**何が変わったか**。
**日常では、何も変わらない**。
(**1キログラムは、1キログラムのままである**。
**測りの目盛は、動かない**。
——**変わったのは、その1キログラムが、何によって支えられているか**である。)
**そして**。
**もし、文明が失われて、千年後に、誰かが、この定義を読んだとする**。
**その人は、金属の塊を探す必要が、無い**。
**プランク定数を測る装置を作れば、キログラムが、そこから出てくる**。
(——**「あらゆる時代に、あらゆる人々に」**。
**二百二十年かけて、その約束が、果たされた**。)