ニールス・ボーア
概要
コペンハーゲン。生理学者の子。サッカーのゴールキーパー(弟はオリンピックの銀)。マンチェスターでラザフォードの下で原子模型。1921年、理論物理学研究所。ハイゼンベルク、パウリ、ディラック、ガモフが来た。「コペンハーゲン精神」。相補性。アインシュタインと30年議論した。1943年、ナチスから漁船でスウェーデンへ逃げ、ロスアラモスへ。戦後、核の国際管理を訴えた。「真理の反対は虚偽だが、深い真理の反対は別の深い真理だ」。
関わったできごと(2)
ボーアの原子模型AD1913年 · 考えた不確定性原理AD1927年3月 · 相補性本文
ニールス・ボーアは、1885年10月7日、コペンハーゲンに生まれた。父クリスチャンはコペンハーゲン大学の生理学の教授で、血液と酸素の関係についての発見(ボーア効果)に名を残している。母エレンは富裕なユダヤ系の銀行家の家の出だった。家には大学の学者たちが集まり、兄弟は子供のころから大人の議論を聞いて育った。

二つ年下の弟ハラルドは数学者になり、サッカーのデンマーク代表として1908年のロンドン・オリンピックで銀メダルを取った。ニールスも同じクラブのゴールキーパーだったが、試合中にゴールポストに数式を書いていて、ボールに気づかなかったという話が伝わっている。真偽はともかく、兄弟を知る人々がいかにもと思った話だった。
1911年、金属中の電子についての博士論文を書き、イギリスへ渡った。ケンブリッジで電子の発見者J・J・トムソンの下についたが、トムソンの理論の誤りを率直に指摘したこともあって、あまり相手にされなかった。1912年3月、マンチェスターのラザフォードの研究室に移った。ラザフォードは前年、原子の中心に小さく重い核があることを示したばかりだった。だが、核の周りを回る電子は、古典物理学に従えば光を出して勢いを失い、核に落ちてしまうはずだった。

ボーアはわずか4か月の滞在のあいだにこの問題をつかみ、帰国後の1913年、三部作の論文で答えを出した(ボーアの原子模型)。電子はとびとびの決まった軌道にしかいられず、軌道を移るときだけ決まった色の光を出す。マックス・プランクの量子の考えを原子に持ち込んだこの模型は、水素が出す光の色の並びを見事に説明した。1912年8月、彼はマルグレーテ・ノアルンと結婚していた。彼女は生涯、論文の清書を手伝い、研究所の若者たちの母のような存在になった。
1916年にコペンハーゲン大学の教授となり、1921年、大学に理論物理学研究所が開かれた。翌1922年、ノーベル物理学賞を受けた。研究所には世界中から若い物理学者が集まった。ヴェルナー・ハイゼンベルク、パウリ、ディラック、ガモフ。彼らは住み込み、昼も夜も議論し、卓球をし、ボーアに連れられて西部劇の映画を見に行った。上下を問わず遠慮なく批判し合う雰囲気は「コペンハーゲン精神」と呼ばれた。

ボーアは講義が下手だった。声が小さく、言いかけては言い直し、聴衆を置いていった。彼は一対一で、歩きながら、相手を疲れ果てさせるまで話すことで考えた。論文は口述で書かせ、何度も書き直させ、一本に何か月もかけた。言葉の正確さに極端にこだわる人だった。
1927年、彼は「相補性」の考えを打ち出した。光や電子は、ある実験では粒子として、別の実験では波として振る舞う。二つの像は互いに矛盾するのではなく、補い合って初めて全体を描くが、同時に両方を見ることはできない。同じ年の不確定性原理と合わせて、この解釈は「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになった。

これに真っ向から異を唱えたのがアインシュタインだった。二人は1927年と1930年のソルベー会議で、朝食の席から夜まで論争した。アインシュタインが量子力学の穴を突く思考実験を持ち出すと、ボーアは一晩考えて反論した。1930年には、アインシュタインの「光の箱」の思考実験を、アインシュタイン自身の一般相対性理論を使って退けた。それでもアインシュタインは納得せず、二人は互いへの敬意を保ったまま、30年近く論争を続けた。
1939年1月、アメリカへ向かう船の上で、ドイツでウランの核分裂が見つかったという知らせを受けた(核分裂の発見)。プリンストンで若いホイーラーとともに、分裂しやすいのはウランのうち少量しかないウラン235だ、とする理論を発表した。爆弾を作るにはこれを大量に集めなければならないことを意味した。

第二次世界大戦が始まり、1940年4月、デンマークはドイツに占領された。1941年9月、ハイゼンベルクが訪ねてきて二人きりで話し、長い師弟の友情はそこで断ち切られた。1943年9月、デンマークのユダヤ人の一斉逮捕が迫り、母方からユダヤ系の血を引く彼にも危険が及ぶと知らされ、夜の海を漁船でスウェーデンへ渡った。ストックホルムでは、スウェーデン国王らに、デンマークのユダヤ人を受け入れると公に表明するよう強く求めた。この10月、デンマーク市民の手でユダヤ人のほとんど、およそ7000人が小舟で海峡を渡って逃れた。
ボーアはその後、イギリスの軍用機の爆弾倉に乗せられてイギリスへ運ばれた。頭が大きすぎて飛行帽とイヤホンが合わず、高度を上げるという指示が聞こえないまま酸素不足で気を失った、と伝えられる。アメリカでは「ニコラス・ベイカー」という偽名でマンハッタン計画のロスアラモスを訪れ、ロバート・オッペンハイマーらの相談役になった。

彼がそこで考えたのは、爆弾が完成したあとの世界だった。1944年、彼はチャーチルとローズヴェルトにそれぞれ会い、原爆の存在をソ連に早めに知らせ、国際的な管理の仕組みを作らなければ、戦後に核兵器の競争が始まると説いた。チャーチルはまったく取り合わず、むしろボーアを危険人物とみて監視させようとした。1945年、広島・長崎への原爆投下で爆弾は使われた。戦後のボーアは、1950年に国連へ公開書簡を送り、国家が科学の情報を隠し合わない「開かれた世界」を訴えた。欧州合同原子核研究機関(CERN)の設立にも力を尽くし、1957年、原子力平和利用賞の最初の受賞者になった。
1947年、デンマーク最高のエレファント勲章を受けたとき、彼は紋章に中国の陰陽の図を選び、「対立するものは補い合う」というラテン語を添えた。真理の反対は虚偽だが、深い真理の反対は、また別の深い真理でありうる、という言葉も、彼のものとして伝えられている。息子は6人いた。長男は1934年にヨットの事故で死に、四男オーゲは原子核の研究で1975年にノーベル物理学賞を受けた。

1962年11月18日、コペンハーゲンの自宅で心臓の発作で死んだ。77歳だった。前の日、書斎の黒板には、30年あまり前にアインシュタインと争った光の箱の図が描かれていた。