できごと

ラマヌジャンの手紙

Ramanujan's Letter to Hardy
AD1913年1月16日
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1913年1月16日の版図を描いています(25勢力)。

概要

港湾事務所の事務員が、証明のない公式を並べた手紙をケンブリッジへ送った。二人が無視し、三人目が本物だと見抜いてインドから呼び寄せる。

場所

チェンナイ
13.08°N 80.27°E · インド・タミル・ナードゥ州(旧マドラス)

関わった人(1)

シュリニヴァーサ・ラマヌジャンAD1887年12月22日–AD1920年4月26日 · 差出人

本文

シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは1887年、南インドのタミル地方に、貧しいバラモンの家の子として生まれた。父は布地商の帳簿係だった。少年のころから数学に飛び抜けた才能を見せ、15歳ごろ、イギリスの受験生向けに定理と公式を数千個並べた参考書を手に入れた。証明はほとんど省かれ、結果だけが並ぶ本である。ラマヌジャンはそれを一つずつ自分で確かめ、その先へと自分の公式を作り始めた。のちの彼の書き方が、結果だけを並べて証明を書かないものになったのは、この本の影響だとよく言われる。

奨学金を得て大学に入ったが、数学以外の科目にまったく身が入らず、落第して奨学金を失った。別の学校でも同じことを繰り返し、学位は取れなかった。結婚し、生活のために職を探しながら、ノートに公式を書き続けた。地元の数学の愛好家や役人たちが彼の才能に気づいて援助し、1912年、マドラス(いまのチェンナイ)の港湾局で会計の事務員の職を得た。上司たちも数学の研究を許していた。

シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの肖像
シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

インドの知人たちは、イギリスの数学者に見てもらうよう勧めた。ラマヌジャンはケンブリッジの数学者たちに手紙を送った。最初の二人は返事をしなかったとされる。1913年1月16日付で書かれた手紙は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのG・H・ハーディに届いた。自分は年収20ポンドほどの事務員で、大学教育を受けていないが、独学で数学を続けてきた、という書き出しの後に、無限級数、連分数、積分、素数の分布についての公式が何ページにもわたって並んでいた。証明は無かった。

ハーディは最初、手の込んだいたずらか詐欺かと思った。しかし読み進めるうちに考えが変わった。いくつかは既に知られた結果で、いくつかは誤っていたが、いくつかはハーディ自身にもどう証明すればよいか見当もつかないものだった。その晩、同僚のリトルウッドと二人で手紙を検討し、これは第一級の数学者の仕事だと結論した。ハーディはのちに、これらの式は正しいに違いない、正しくなければ、それを思いつくほどの想像力を持つ者などいるはずがないからだ、という趣旨のことを書いている。

クンバコナムのサランガパニー通りにあるラマヌジャンの生家。
クンバコナムのサランガパニー通りにあるラマヌジャンの生家。Wikimedia Commons Adiswini at English Wikipedia · Public domain

ハーディはすぐにケンブリッジへ招こうとした。だがラマヌジャンは迷った。正統なバラモンにとって、海を渡ることは身分を汚す行いとされていたからである。最後は、母が一族の女神から許しを得る夢を見た、という形で決心がついたと伝わる。1914年4月、ラマヌジャンはケンブリッジに着いた。

それから5年、二人は共同で研究した。几帳面に証明を積み上げるハーディと、直観で結果を見抜くラマヌジャンの組み合わせだった。整数をいくつかの整数の和に分ける方法の数を近似する公式など、重要な成果がいくつも生まれた。1918年、ラマヌジャンはインド人として二人目の王立協会の会員に選ばれ、インド人として初めてトリニティ・カレッジのフェローになった。

一方で、暮らしは楽ではなかった。厳格な菜食を守るために自分で料理をしたが、第一次世界大戦のさなかで食べ物が手に入りにくく、寒さにも苦しんだ。1917年ごろから重い病にかかり、療養所を転々とした。見舞いに来たハーディが、乗ってきたタクシーの番号1729はつまらない数だと言うと、ラマヌジャンは、それは二通りの立方数の和で表せる最小の数だから、とても面白い数だと答えた、という話はよく知られている。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1919年にインドへ帰ったが、病は良くならず、1920年4月、32歳で亡くなった。病名は当時は結核とされたが、近年は肝臓の寄生虫症だったとみる説もある。

ラマヌジャンが残したノートには、証明の無い公式が3000あまり並んでいた。数学者たちは何十年もかけてそれを一つずつ証明し、ほとんどが正しかったことを確かめた。1976年には、亡くなる直前の1年間に書かれた紙の束がトリニティ・カレッジの図書館で見つかり、「失われたノート」と呼ばれた。そこに書かれた「擬テータ関数」は、21世紀になってからブラックホールの物理の計算にも現れ、改めて注目されている。

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