できごと

合成インディゴ

Synthetic indigo
AD1897年
重要度 5
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国Algeria (FR)モロッコイタリアルーマニアブルガリアアイスランドギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1897年ルートヴィヒスハーフェン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1897年の版図を描いています(25勢力)。

概要

アドルフ・フォン・バイヤーが1878年に合成に成功し、1883年に構造を決めた。しかし工業化は別である。BASFは十七年と、当時の資本金を超える一千万マルク以上を投じた。転機は偶然で、水銀の温度計が割れて釜に落ち、それが触媒として働いた。1897年、製品が出る。インド各地の藍の畑が、数年で価値を失った。ベンガルとビハールの農村経済が崩れ、そこから南アフリカ帰りのガンディーが最初に取り組んだ農民運動が生まれる。

場所

ルートヴィヒスハーフェン
49.48°N 8.44°E · ドイツ・ラインラント=プファルツ州

本文

藍色の染料インディゴは、何千年ものあいだ植物から採るしかなかった。インドのコマツナギ属の藍や、ヨーロッパのウォード(大青)、日本のタデアイの葉を発酵させ、そこから青の色素を引き出す。なかでもインドの藍は質がよく、18世紀の末からはイギリスの植民地支配のもとで、ベンガルやビハールの農村で大規模に作られて世界に輸出された。染料は、植民地の大きな富の源の一つだった。

その青を、化学で作ろうとした人がいる。ドイツの化学者アドルフ・フォン・バイヤー(1835〜1917年)は、1860年代からインディゴの研究に取り組んだ。1878年ごろには実験室で合成することに成功し、1883年にはその分子の構造を決めた。二つの環が二重の結合でつながった形が、あの深い青を生んでいる。バイヤーはこうした有機染料の研究で、1905年にノーベル化学賞を受けた。なお、製薬会社のバイエルとは名前が似ているだけで、関係は無い。

インディゴ分子の立体模型
インディゴ分子の立体模型Wikimedia Commons Jynto ( talk ) · CC0

だが、実験室で作れることと、工場で安く大量に作れることは、まったく別の話だった。バイヤーの方法は高価な原料を使い、何段階もの反応を経る。そのまま工場に持ち込んでも、天然の藍に値段で勝てない。この壁に挑んだのが、ライン川沿いのルートヴィヒスハーフェンに本拠を置く染料会社BASF(バーディッシェ・アニリン・ウント・ソーダ・ファブリーク)である。BASFは合成染料の時代の先頭に立っていた会社で(モーヴと合成染料に始まる流れの中にある)、同じドイツのヘキストも同じ目標を追っていた。

BASFは、1880年ごろから17年近くをこの研究につぎ込んだ。費やした金は、当時の会社の資本金を上回るほどだったと伝えられる。何度も行き詰まり、出発点となる原料を変えた。1890年、チューリッヒの化学者ホイマンが、より安い原料から出発する新しい道筋を示すと、研究はそちらへ向かった。最後の難関は、コールタールから採れるナフタレンを酸化して、中間の原料を安く作る段階だった。濃い硫酸で反応させても、収量がひどく少なかった。

インディゴで染めたタゲルムストをまとうトゥアレグの人々(マリ、トンブクトゥ近郊の砂漠祭)
インディゴで染めたタゲルムストをまとうトゥアレグの人々(マリ、トンブクトゥ近郊の砂漠祭)Wikimedia Commons Alfred Weidinger from Vienna, Austria · CC BY 2.0

ここで、よく語られる逸話がある。ある日、反応の釜の中で水銀の温度計が割れ、水銀が中に落ちた。すると、その回だけ収量が大きく上がった。水銀が触媒として働いていたのである。BASFの化学者オイゲン・ザッパーらはこれを確かめ、方法を固めた。温度計の話は細部に脚色が加わっている可能性があるが、水銀を触媒に使ったことが工業化の決め手の一つになったことは確かである。

1897年、BASFは合成インディゴを売り出した。天然の藍は、インディゴの含まれる割合が産地や年によってばらつき、混じりものが色合いを微妙に変える。合成品は純度が高く、いつも同じ色が出る。そして値段は年ごとに下がっていった。少し遅れてヘキストも市場に加わり、ドイツの化学工業は20世紀の初めには世界の藍の需要の大きな部分を押さえるようになった。

インディゴで染めた毛糸
インディゴで染めた毛糸Wikimedia Commons Loggie-log · Public domain

インドの藍は、十数年のうちに市場を失った。輸出は急激に落ち込み、第一次世界大戦の前には、かつての数分の一にまで減った。打撃を受けたのは農村だった。藍の栽培はもともと、ヨーロッパ人の農園主が農民に前貸しの金を渡し、決まった土地に藍を植えさせる仕組みで、農民にとっては苦しいものだった。1859年にはベンガルの農民が藍の栽培を拒む大きな騒ぎも起きている(藍の反乱)。藍が売れなくなると、農園主は引き上げを始めた。ところが、前貸しの借金は消えない。農園主の中には、藍を植えなくてよい代わりに金を払え、と農民に償いの金を迫る者もいた。

その舞台の一つが、ビハール州の北のチャンパーランだった。ここでは、耕地の20分の3に藍を植えさせるティンカティアと呼ばれる制度が農民を縛っていた。1917年、地元の農民ラージクマール・シュクラが、南アフリカから帰国して間もないガンディーのもとに何度も足を運び、チャンパーランに来てほしいと頼み込んだ。ガンディーは現地に入り、数千人の農民から聞き取りを始めた。当局は彼に退去を命じたが、ガンディーは従わず、法廷に立つ覚悟を示した。集まった農民の姿に押されて当局は命令を引っ込め、調査の委員会を置いてガンディーをその一員に加えた。委員会の勧告を受けて、ティンカティアの制度は廃止され、取り立てられた金の一部が返された。

フリーズドライのインディゴ染料の入った鍋
フリーズドライのインディゴ染料の入った鍋Wikimedia Commons Loggie-log · Public domain

チャンパーランの運動は、インドでのサティヤーグラハ(真理を固く守る非暴力の抵抗)の最初の成功とされる。ガンディーはここから全国の政治の舞台へ進んでいく。ドイツの工場で作られた青い粉が、遠いインドの農村の仕組みを崩し、その崩れたすき間から独立運動の指導者が現れた。化学と植民地と独立とが、一本の糸でつながっている。

いまも合成インディゴは、世界で年に数万トンが作られている。その大部分が向かう先はジーンズである。製法は改良を重ねてきたが、作る過程で毒性の強い物質を使い、染めるときには色素を溶かすための還元剤と強いアルカリが要る。染色の工場が集まる中国やバングラデシュ、インドの川に、青く濁った排水が流れ込む写真は、繰り返し報じられてきた。微生物に色素を作らせる方法や、電気の力で還元する方法が研究されているが、まだ規模は小さい。

天然の藍も、消えたわけではない。日本の阿波の藍、インドの手仕事の藍染め、西アフリカの伝統の藍染めは、いまも作られている。ただ、それは世界の青のごく一部にすぎない。地球上のほとんどの青い布は、19世紀の終わりにライン川のほとりの工場で始まった化学の青で染められている。

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