人物

ルネ・ラエンネック

René Laennec
AD1781年2月17日 – AD1826年8月13日(享年45)
フランス重要度 4

概要

ブルターニュ、カンペールの生まれ。母を五歳で結核により亡くし、医師の叔父に育てられた。革命下のナントで、十代から病院を手伝う。パリでコルヴィザールに学び、解剖と臨床を突き合わせる方法を身につけた。1816年、聴診器を考案。1819年『間接聴診法について』。肝硬変と腹膜炎の記述にも名を残す。ブルトン語を話し、笛を吹き、故郷に土地を買って過ごすことを好んだ。自らも結核にかかり、甥に自分の胸を聴かせて診断させ、四十五歳で死んだ。

関わったできごと(1)

聴診器AD1816年 · 作った

本文

ルネ・テオフィル・ヤサント・ラエンネックは1781年2月17日、フランス西部ブルターニュ地方の町カンペールに生まれた。父は法律家で詩も書いたが、家庭を顧みない人だった。5歳のとき、母が結核で死んだ。ルネと弟は親類に預けられ、やがて港町ナントで医師をしていた叔父ギヨームに引き取られた。

ルネ・ラエンネックの肖像
ルネ・ラエンネックの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

叔父の家で迎えたのがフランス革命だった。ナントは恐怖政治の嵐が最も激しく吹き荒れた町の一つで、少年は大量の処刑が行われるのを身近に見た。10代になると叔父の病院を手伝い、負傷兵の包帯を巻き、病人の世話をした。医学の道は、この病院から始まった。

1801年、20歳でパリに出た。金がなく、歩いて向かったと伝えられる。パリでは、のちにナポレオン・ボナパルトの侍医となるジャン=ニコラ・コルヴィザールに学んだ。コルヴィザールは、胸を指で叩いて響きを聞く打診法を広めた人で、生きている患者の症状と、死後の解剖で見える体の中の変化とを突き合わせることを教えた。ラエンネックはこの方法を徹底して身につけた。学生のうちから論文を書き、腹膜炎の記述や、肝臓が硬く縮む病気に「肝硬変(シロシス)」の名を与えた仕事で知られるようになった。黄褐色を意味するギリシア語にちなむ名である。

世界初の聴診器の図(1819年)
世界初の聴診器の図(1819年)Wikimedia Commons René-Théophile-Hyacinthe Laennec · Public domain

彼は敬虔なカトリックで、王政を支持する立場だった。そのためナポレオンの時代には昇進が遅れ、王政が戻ってから重い地位に就いた。同時代の人々の評は割れていて、気位が高いと言う人もいれば、貧しい患者から金を取らない親切な医師だったと証言する人もいる。

1816年、パリのネッケル病院の医師になったその年に、彼は聴診器を考え出した(聴診器)。心臓を病んだ若い女性を診たときのことである。当時、胸の音を聞くには耳をじかに胸に当てるしかなかったが、相手は若い女性で、しかも太っていて、耳を当てても音はよく聞こえない。彼はそのとき、子どもたちが長い木材の片端を引っかき、反対の端に耳を当てて音を聞いて遊んでいた光景を思い出したという。紙を固く筒状に丸めて片端を患者の胸に当て、もう片端に耳を当てると、心臓の音が、じかに聞くよりずっとはっきり聞こえた。

現代の聴診器
現代の聴診器Wikimedia Commons this version: Sonarpulse . origenal: Huji · Public domain

それからの3年が、彼の本当の仕事だった。彼は木で筒を作り、病棟の患者の胸の音を聞いては書き留め、患者が死ぬと解剖して、聞こえた音が肺や心臓のどんな変化に対応していたのかを確かめた。それを何百人もの患者で繰り返した。ぜいぜいという音、ぱちぱちという細かい音、声が胸の中で山羊の鳴き声のように響く音。彼は音に名を付け、それぞれが体の中のどの異常のしるしなのかを結びつけていった。結核に冒された肺の空洞や、肺炎、胸に水がたまる病気を、生きているうちに見分けられるようになったのである。

1819年、その成果を2巻の大著『間接聴診法について』にまとめた。本には、木の聴診器を添えて買うこともできた。ところが本を書き上げた直後、彼は倒れた。過労と、そして結核である。故郷ブルターニュに戻り、2年ほど療養した。

学生の前で患者の聴診を実演して見せているラエンネック
学生の前で患者の聴診を実演して見せているラエンネックWikimedia Commons Théobald Chartran · Public domain

彼が愛したのは、ブルターニュの海に近い土地に買った小さな屋敷だった。そこで彼は野を歩き、笛を吹き、近くの農民を診た。土地の言葉であるブルトン語を話し、その言葉や民謡にも深い関心を寄せていた。

1821年にパリに戻ると、ふたたび病棟と教壇に立ち、コレージュ・ド・フランスの教授にもなった。本の第2版にも取り組んだ。しかし結核は進んでいった。母を奪い、弟の命も奪った病が、今度は彼自身を蝕んでいた。

ルネ・ラエンネック
ルネ・ラエンネックWikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC BY 4.0

1826年、彼はブルターニュの屋敷に戻った。同じく医師になっていた甥のメリアデックに自分の胸を聴診させ、その所見から、自分の病が末期であることを悟ったと伝えられる。8月13日、45歳で死んだ。遺言で、彼は自分の聴診器を甥に遺し、これが遺すものの中でいちばん大切なものだという意味のことを書いた。

彼が死んだとき、結核の原因はまだ分かっていなかった。結核菌が見つかるのは半世紀以上たった1882年のことである(ロベルト・コッホ)。それでも、胸の中の変化を外から音で知るという彼の方法は、医師が患者の体の中を推し量るための最初の確かな道具になった。耳で聞いた音を体の中の変化に対応させ、それを解剖で確かめるという考え方は、のちのレントゲン写真や超音波の検査にも通じている。いまも医師の首にかかる聴診器は、彼が丸めた一枚の紙の子孫である。故郷カンペールに立つ彼の像は、手に木の筒を持っている。

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