張衡
概要
天文を司る役人。渾天儀と、地震の方角を示す地動儀を作った。詩人でもあった。
関わったできごと(1)
張衡の地動儀AD132年 · 製作本文
後漢の成立から半世紀あまりたった78年、南陽郡西鄂(いまの河南省南陽のあたり)に生まれた。祖父は地方の長官を務めた人だったが、家は豊かではなかった。若いころから文章に優れ、都の洛陽や古都の長安に出て学んだ。学問のなかでも、天文と数学、暦に強い関心を持った。

最初に名を上げたのは、文学だった。後漢の都洛陽と、前漢の都長安を描いて、当時のぜいたくを風刺した長い賦(韻文の作品)『二京賦』を書き上げた。構想から完成まで10年かけたとされる。のちに書いた短い賦『帰田賦』は、役人の暮らしを離れて田園に帰る心を歌ったもので、のちの時代の田園の詩の先駆けとされる。
115年、太史令に任じられた。太史令は天文と暦を司る役人で、天の動きを観測し、暦を作り、日食や彗星などの天の異変を朝廷に報告する。天の異変は、地上の政治の乱れに対する天の警告と考えられていた。だから天文官の仕事は、そのまま政治にもつながっていた。

天の形について、張衡は「渾天説」を採った。天は卵の殻のように丸く地を包み、地はその中の黄身のようなものだ、という考えである。著書『霊憲』では、月はそれ自体が光るのではなく、太陽の光を受けて光るのであり、月食は月が地の影に入ることで起きる、と書いた。目に見える星を数え、名のある星が数百、小さな星を合わせて2500あまりあると記している。
この考えをもとに、張衡は水の力で回る渾天儀を作った。天球の模型を水時計の流れで少しずつ回し、その動きが実際の星の動きと合うようにしたものだ。部屋の中で模型を見ている者が、外で観測している者に、いまどの星が昇り、どの星が南中しているかを言い当てた、と伝えられる。同じ頃、ローマ帝国のアレクサンドリアではクラウディオス・プトレマイオスが天文学の大著を書いていた。東西で、天を数で捉えようとする試みが同時に進んでいた。

132年には、地震の方角を知る道具、地動儀を作った(張衡の地動儀)。『後漢書』によれば、青銅で酒がめのような形に作り、外側の八方に、玉をくわえた龍を付けた。下には口を開けたヒキガエルを置く。地震が起きると、その方角の龍が玉を落とし、ヒキガエルの口に入って音を立てる。138年、龍の一つが玉を落としたが、洛陽の人々は誰も揺れを感じなかった。人々はこれを疑ったが、数日後、西の隴西から、大きな地震があったという知らせが届いた。以後、地震の方角を記録させるようになったという。
ただ、地動儀の現物も設計図も残っていない。手がかりは『後漢書』のわずかな記述だけで、中の仕掛けがどうなっていたのかは分からない。20世紀以降、さまざまな復元が試みられてきたが、どれが本当の形に近いかは、いまも議論が続いている。数学では、円周率を10の平方根(およそ3.16)とする値を用いたとされる。
張衡が生きたのは、後漢の朝廷で宦官と外戚が権力を争った時代だった。張衡は天の異変を根拠に、政治の乱れを正すよう皇帝に上奏を重ねた。また、当時の朝廷では、未来を予言するとされる「讖緯」の書がもてはやされていたが、張衡はそれを後世の偽作だとして、禁じるよう上奏している。天を観測する者として、根拠のない予言を退けたのである。宦官たちに疎まれ、やがて都を離れて地方の長官になった。そこでは、法を無視する豪族や役人を取り締まり、評判を得たという。
139年に死去した。数えで62歳。のちの時代、彼は科学者として、そして文学者として、中国の歴史に名を残した。いま、月の裏側のクレーターと小惑星に、彼の名が付けられている。同じ後漢の時代には蔡倫の製紙法も生まれている。紙と地動儀と渾天儀。2世紀の洛陽は、こうした新しい技術の生まれた場所でもあった。