人物

ジョゼフ・バンクス

Joseph Banks
AD1743年2月24日 – AD1820年6月19日(享年77)
イギリス重要度 3

概要

自費でクックの第一回航海に乗り込み、数千の標本を持ち帰った。以後41年、王立協会の会長として科学と植民地を結びつける。

関わったできごと(1)

クックの太平洋航海1768年 · 同乗した博物学者

本文

ジョゼフ・バンクスは1743年2月24日、ロンドンに生まれた。家はイングランド東部のリンカンシャーに広い地所を持つ裕福な地主だった。名門のハロー校、イートン校で学んだが、古典の勉強には熱が入らず、14歳のころ、夏の夕暮れの小道で野の花の美しさに打たれて植物に夢中になった、と後に語っている。地元の薬草を摘む女たちに金を払って、草の名を教わったという。

ジョゼフ・バンクス
ジョゼフ・バンクスWikimedia Commons Joshua Reynolds · Public domain

オックスフォード大学に進んだが、植物学を教える教授がいなかったため、自分の金でケンブリッジから講師を呼んだ。在学中に父が亡くなり、莫大な財産を継いだ。学位は取らずに大学を離れている。1766年、海軍の船に便乗してカナダのニューファンドランドとラブラドルへ渡り、植物や動物を集めた。同じ年、23歳で王立協会の会員に選ばれた。

1768年、王立協会と海軍は、金星が太陽の前を横切る現象を南太平洋で観測するため、ジェイムズ・クックの率いるエンデバー号を送り出すことにした(クックの太平洋航海)。バンクスはこの航海に、自分の費用で加わった。スウェーデンの植物学者ソランダー、画家のシドニー・パーキンソンら8人の一行を連れ、道具や書物、標本を作る器材を積み込んだ。その費用は1万ポンドに上ったとされ、海軍がこの遠征に出した予算を上回るほどだったという。

キャプテン・クック、バンクス、サンドウィッチ伯爵ら、モーティマー画(1771年)
キャプテン・クック、バンクス、サンドウィッチ伯爵ら、モーティマー画(1771年)Wikimedia Commons John Hamilton Mortimer (1740-1779). Previously attributed to Johann Zoffany (1733-1810); a plaque on reverse of frame gi · Public domain

1769年、エンデバー号はタヒチに着いた。バンクスはタヒチの人びとと積極的に交わり、言葉を学び、祭儀にも加わり、刺青も入れたとされる。航海はそこからニュージーランドを回り、1770年4月、オーストラリアの東岸の湾に入った。ここで一行はおびただしい新しい植物を採集し、クックはこの湾を「ボタニー(植物学)湾」と名づけた。グレート・バリア・リーフでは船が座礁しかけ、帰路のバタヴィアでは多くの乗組員が熱病で死んだ。パーキンソンもその一人だった。

1771年に帰国したとき、一行の持ち帰った標本は数万点にのぼり、そのうちヨーロッパに知られていなかった植物は千種を超えた。バンクスは一躍、時の人になった。国王ジョージ3世とも親しくなり、ジェームズ・クックをさしおいて、航海の主役のように扱われた。クックの二度目の航海にも加わるつもりだったが、船室の改造をめぐって海軍と対立し、参加を取りやめた。

バンクスを風刺した『植物マカロニ』、ダーリー画(1772年)
バンクスを風刺した『植物マカロニ』、ダーリー画(1772年)Wikimedia Commons Darly, Matthew · Public domain

1778年、バンクスは35歳で王立協会の会長に選ばれた。以後、1820年に死ぬまで41年間その座にあった。いまも破られていない長さである。バンクスは自ら論文を書くことは少なかったが、科学者に資金と職と船を世話し、政府と科学をつなぐ役を果たした。

国王の植物園だったキューでは、事実上の園長として、世界中に植物採集者を送り出した。集めた植物は、ただ珍しいだけでなく、役に立つかどうかで選ばれた。茶をインドで、香辛料を西インド諸島で育てられないか。その代表が、南太平洋のパンノキを西インド諸島へ運び、プランテーションの奴隷の安い食料にしようという計画だった。バンクスの推薦で、ブライ艦長のバウンティ号がタヒチへ向かった。1789年、パンノキを積んだ帰りの航海で、乗組員が反乱を起こした(バウンティ号の反乱)。ブライは二度目の航海で運搬を果たしている。

ジョゼフ・バンクスの肖像、ベンジャミン・ウェスト画
ジョゼフ・バンクスの肖像、ベンジャミン・ウェスト画Wikimedia Commons Benjamin West · Public domain

バンクスは、オーストラリアの未来にも口を出した。アメリカの独立で罪人を送る先を失ったイギリス政府に、ボタニー湾を流刑の植民地にするよう勧めたのである。1788年、最初の囚人船団がオーストラリアに着いた(第一船団のボタニー湾到着)。バンクスはその後も植民地の総督たちと手紙を交わし、「オーストラリアの父」と呼ばれることもある。だが、そこに住んでいた先住民の土地を奪うことについて、彼が深く考えた形跡は乏しい。

晩年は痛風に苦しみ、車椅子で過ごした。それでも自宅の図書室と標本室を学者たちに開き続けた。1820年6月19日、ロンドン郊外の家で死んだ。77歳だった。オーストラリアの植物の属名バンクシアに、その名が残っている。

オマイ、バンクス、ソランダー、パリー画
オマイ、バンクス、ソランダー、パリー画Wikimedia Commons William Parry · Public domain

科学者としての大発見があったわけではない。バンクスが作ったのは、科学を国家と帝国の事業に結びつける仕組みだった。植物を集め、名づけ、役に立つものを植民地へ移す。その仕組みは、19世紀の大英帝国の拡大と深く絡み合っていく。『サピエンス全史』が、科学と帝国の結びつきの例としてクックの航海を挙げるとき(物語「『サピエンス全史』で読む歴史」)、その船に乗っていた科学者の代表がこの人である。

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