人物

トマス・ミジリー

Thomas Midgley Jr.
AD1889年5月18日 – AD1944年11月2日(享年55)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

発明家の家に生まれ、コーネルで機械工学を修めた。ゼネラルモーターズで、ノッキングを止める添加剤として四エチル鉛を見出し、1921年に実用化した。工場で作業員が中毒死し、彼自身も鉛中毒で療養している。それでも安全だと記者会見で主張した。1930年、無毒な冷媒としてフロンを開発。二つとも大規模に普及し、二つとも後に世界的な規制の対象になった。晩年、ポリオで身体が動かなくなり、自作の滑車装置に絡まって死んだ。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

フロンの発明AD1930年 · 作った

本文

トマス・ミジリー・ジュニアは1889年5月18日、ペンシルヴェニア州ビーヴァー・フォールズに生まれた。父は自動車のタイヤなどの特許を持つ発明家で、母方の祖父も道具の発明にかかわった人だったとされる。発明する家に育った彼は、コーネル大学で機械工学を学び、1911年に卒業した。

1916年、彼はオハイオ州デイトンで、チャールズ・ケタリングの研究所に入った。ケタリングは自動車のエンジンを電気で始動させる装置を作った技術者で、その研究所はのちにゼネラルモーターズの研究部門になる。ミジリーはここで、二つの物質を世に送り出すことになった。

一つ目の問題は、エンジンの「ノッキング」だった。シリンダーの中で燃料が予定より早く勝手に爆発し、かりかりと音を立て、力が落ち、ひどければエンジンが壊れる。燃料をより強く圧縮すれば効率は上がるが、そうするとノッキングが起きる。T型フォードで車が大衆のものになりつつあった時代、これを止める添加剤が求められていた。

ミジリーは何年もかけて、何千もの物質を試した。初めは、赤い色の物質なら効くのではないかという見当違いの仮説から出発し、ヨウ素が効くことを見つけたが、それは色とは関係なかったという話も伝わっている。1921年12月、彼は四エチル鉛にたどり着いた。ごく少量でよく効き、しかも安い。そして、鉛だった。

鉛の毒は古代から知られていた。ローマの建築家ウィトルウィウスは、水道に鉛の管を使う危うさを書き残している。日本でも白粉の鉛が害をなしたことが知られる(白粉の毒)。1920年代の医学者たちもはっきり警告した。産業の病を研究したアリス・ハミルトンは、これは多くの人々に慢性の鉛中毒を広めることになる、という趣旨の懸念を示した。彼女は正しかった。

1924年10月、ニュージャージー州にあったスタンダード石油の工場で、四エチル鉛を作る作業員が次々に倒れた。数日のうちに5人が死に、30人を超える人々が重い神経の障害を負った。幻覚を見て暴れる者もいた。新聞はこれを「狂気のガス」と書き立てた。デイトンや別の会社の工場でも死者が出ていた。

その月の30日、ミジリーは記者会見を開いた。記者たちの前で四エチル鉛を手に注いで洗い、その蒸気を1分ほど吸い込んでみせた。毎日こうしても何の害もない、という趣旨のことを彼は言った。事実ではなかった。彼自身、その前年に鉛中毒にかかり、フロリダで何か月も療養していたのである。そのことを彼は公にしなかった。

四エチル鉛は、半世紀にわたって世界中のガソリンに入れられた。排気ガスとともに鉛はまき散らされ、大気と土と人の体にたまっていった。地球の年齢を測ろうとしていた地球化学者クレア・パターソンは、身の回りが鉛で汚れていることに気づき、グリーンランドの氷を掘って、空気中の鉛が産業の時代、とりわけ有鉛ガソリンの普及とともに激増したことを示した。パターソンは業界から激しい攻撃を受けた。子どもの知能の発達への害もくり返し示され、各国は少しずつ有鉛ガソリンをやめていった。アメリカでは1996年に自動車用が全面的に禁止され、最後まで使っていたアルジェリアが在庫を使い切ったのは2021年7月だった。ちょうど百年かかった。

二つ目は冷蔵庫だった。当時の冷蔵庫には、アンモニアや二酸化硫黄など、漏れれば人の命にかかわる気体が使われていた。1928年、ケタリングの研究所は、燃えず、毒もない冷やすための気体を求めた。ミジリーの班は短い期間で、フッ素と塩素を含む炭素の化合物、のちにフロンと呼ばれる物質を見つけた(フロンの発明)。1930年の発表の場で、彼はこれを吸い込んでからろうそくの火に吹きかけて消してみせた。燃えず、毒もないことを示すためだった。今度は本当に安全に見えた。フロンは冷蔵庫と冷房とスプレーの缶に広く使われた。

それから40年あまりたった1974年、化学者のモリーナとローランドが、フロンが空の高いところまで上がって、紫外線を防ぐオゾンの層を壊すと警告した。1985年には南極の上空にオゾンの穴が見つかり(オゾンホールの発見)、1987年のモントリオール議定書で、フロンは世界的に規制されることになった。ミジリーはそれを知らずに死んでいる。

1940年、51歳のミジリーはポリオにかかり、体が思うように動かなくなった。彼は自分でベッドから起き上がるため、ロープと滑車を組み合わせた装置を考えて作った。1944年11月2日、彼はその装置のロープが首に絡まった姿で見つかった。55歳だった。検死は事故とした。自ら命を絶ったのではないかという見方も根強いが、遺書はなく、直前まで仕事の予定を立てていたともいわれ、真相は分からない。

生前の彼は、100を超える特許を持ち、多くの賞を受け、死の年にはアメリカ化学会の会長でもあった。環境史家のJ・R・マクニールは、彼は地球の歴史上、どの単一の生物よりも大気に大きな影響を与えた、という趣旨のことを書いている。もちろん、称賛ではない。

彼は悪人ではなかった、と見る人も多い。その時代の科学と企業の論理の中では、彼の仕事は筋が通っていた。問題は、新しい物質が何十年も先に何をもたらすかを、誰も調べる仕組みがなかったことだった。一人の人間が世に出した二つの物質が、どちらも世界的な条約と法律で禁じられた。その経験が、新しい化学物質の害を前もって調べる考え方を育てることになった。

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