ヒッパルコス
概要
ロドスで観測し、歳差を見つけ、850の星の表を作り、三角法を始めた。プトレマイオスの体系は、この人の観測の上に建っている。
所属
ギリシア諸ポリス関わったできごと(1)
ヒッパルコスの歳差の発見BC130年頃 · 発見本文
紀元前190年頃、小アジア北西部のビテュニア地方、ニカイアに生まれた。いまのトルコのイズニクにあたる。生涯についてはほとんど何も分かっていない。確かめられるのは、残された観測の記録が紀元前147年頃から紀元前127年頃にわたり、その多くがエーゲ海の東のロドス島で行われたことくらいである。

アレクサンドロス大王の東方遠征から150年あまり後、ギリシアの学問とメソポタミアの学問が出会った時代だった。少し前には、アレクサンドリアのエラトステネスが地球の大きさを測っている。ヒッパルコスはその流れの中で、天文学を幾何学の推論から、数で確かめる学問へ変えた人とされる。
本人の著作は、ほとんど失われた。完全な形で残っているのは、星座を詠んだ詩とその元になった天文書の誤りを論じた注釈書一冊だけである。それ以外の仕事は、300年近く後のアレクサンドリアの天文学者クラウディオス・プトレマイオスが『アルマゲスト』の中で引用し、繰り返し称えていることで知られる。

もっとも名高いのは、歳差の発見である(ヒッパルコスの歳差の発見)。乙女座の明るい星スピカの位置を自分で測り、150年ほど前にアレクサンドリアで記録された位置と比べた。すると、春分点(太陽が春分の日に通る天の点)から見た星の位置が、2度ほどずれていた。ヒッパルコスは、星が動いたのではなく、春分点そのものが星々の間をゆっくり西へ動いているのだと考え、その速さを100年に1度以上と見積もった。実際には約72年で1度、2万6千年ほどで天を一周する。地球の自転の軸が、こまの首振りのように回っているためだが、その理由が分かるのはニュートンの時代になってからである。
この発見から、太陽が春分点に戻るまでの1年と、同じ星の位置に戻るまでの1年とが、わずかに違うことも分かった。ヒッパルコスが求めた1年の長さは、365日と4分の1から300分の1日を引いたもので、実際との差は6分ほどだった。

ギリシア人として初めて、メソポタミアの観測記録を本格的に使った人とされる。バビロニアの書記たちは何百年にもわたって日食や月食を粘土板に記録しており、ヒッパルコスはそれを自分の観測と突き合わせて、月の満ち欠けの周期を秒の単位まで正確に求めた。円を360度に分け、60進法(六十進法)で角度を刻む習慣がギリシアに根づいたのも、このころからとされる。
星の表も作った。800から1000ほどの星について、天球上の位置を記したとされる。ローマのプリニウスは、新しい星が現れたのを見て、星は永遠に変わらないという考えを疑い、後の人が変化を確かめられるように表を作ったのだと伝えている。星の明るさを6つの等級に分ける方法も、プトレマイオスの星表を通じて今日まで受け継がれ、ヒッパルコスに始まるとされることが多い。ただし、等級の考え方をどこまで彼が作ったのかは確かではない。

天の位置を計算するために、円の中心角とそれに対する弦の長さの表を作った。いまの三角関数の表の始まりで、このことから三角法の祖とも呼ばれる。月食のとき月を横切る地球の影の大きさなどから、月までの距離を地球の半径のおよそ60倍余りと求めた。実際の値は約60倍で、かなり近い。
太陽と月の動きについては、地球を中心からずらした円の上を回るという模型を作り、季節の長さが等しくないことを説明した。紀元前100年頃の沈没船から見つかった歯車仕掛けの計算機(アンティキティラ島の機械)には、ヒッパルコスの月の理論に通じる仕組みがあるとの指摘もある。

亡くなったのは紀元前120年頃とされる。後世の評価は高く、プトレマイオスは「真理を愛する人」と呼んだ。一方で、プトレマイオスの星表はヒッパルコスの観測をそのまま年代だけずらして写したのではないか、と疑う研究者もいて、議論は今も決着していない。地球を中心に置いたその天文学は、コペルニクスが太陽を中心に置くまで1400年以上使われ続けた。観測を積み重ね、理論より観測を信じた姿勢は、模型が変わった後も天文学の土台として残っている。