太初暦
概要
武帝が暦を改め、正月を今の位置に定めた。司馬遷も編纂に加わっている。以後の中国の暦の枠組みになる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
古代の中国で、暦は天子が天から授かった務めの一つだった。天体の運行を正しく読み、季節に合った時を民に示すことが、天命を受けた者の証とされた。王朝が代われば暦を改める。それは新しい天命が下ったことを、天と人に示す行いだった。
ところが、紀元前202年に建った漢(漢の成立)は、100年近くたっても自分の暦を持っていなかった。使っていたのは、秦の中国統一を果たした秦の暦(顓頊暦)である。この暦は冬の10月を一年の始まりとしていた。また、長く使ううちに計算と実際の天体の動きがずれ、暦の上の月の初め(朔)に月が見えたり、予告と違う日に日食が起きたりするようになっていた。

改暦を強く望んだのは、漢の武帝だった。武帝は即位から30年あまりのうちに匈奴を退け、西域へ使者を送り(張騫の西域派遣)、泰山で天と地を祀る封禅の儀式を行っていた。漢がもはや秦の後継ではなく、自ら天命を受けた王朝であることを形にするには、暦を改めることが欠かせなかった。
紀元前104年、天文と記録をつかさどる太史令の司馬遷は、天文官たちとともに暦の改定を上奏した。武帝はこれを受け入れ、各地から暦に通じた者を集めた。民間の天文家の落下閎や鄧平らが加わり、天体の観測をやり直して、いくつもの案を競わせたうえで、鄧平らの案が採られた。

新しい暦の要は、ひと月の長さを29日と81分の43日とする計算にあった。81という数で日を分けるので、八十一分暦とも呼ばれる。一年は約365.25日となり、19年のあいだに7回の閏月を置いて、月の満ち欠けと季節のずれを調整した。新しい暦では、二十四節気のうち冬至や春分などの「中気」を基準にして、中気を含まない月を閏月とする置き方が採られたとされる。この置き方は、のちの中国の暦に長く受け継がれた。
最も大きな変更は、年の始まりを移したことである。秦の10月始まりをやめ、立春のころにあたる月を正月とした。これは古代の夏王朝の暦にならったものとされ、農作業の始まりと一年の始まりがそろう。私たちが今「旧暦の正月」と呼んで春節を祝う仕組みは、この時に定まった枠組みを受け継いでいる。
改暦はその年のうちに行われ、元号も「太初」と改められた。天地の始まりを意味する名で、暦も太初暦と呼ばれる。この年には、服の色や役所の名、印に刻む字の数なども改められ、漢の制度が一新された。
同じ年、武帝は将軍の李広利を西のフェルガナへ送り出している。名馬として知られた汗血馬を手に入れるための遠征だった(大宛遠征(汗血馬))。暦を改め、制度を一新し、遠い西の果てへ兵を出す。紀元前104年は、武帝の漢が自らの姿を天下に示した年だった。
太初暦は、その後の正史に暦の記録を載せる伝統の出発点にもなった。暦の数値と計算の方法は、班固の『漢書』の律暦志に詳しく書き留められ、後の王朝の歴史書も、それぞれの暦をこの形で記録していく。暦を改めるたびに、天文官たちは過去の日食や月食の記録と照らし合わせて新しい暦の正しさを論じた。暦は天命の印であると同時に、観測と計算で確かめられる学問でもあった。
改暦を担った司馬遷は、この頃すでに父の遺志を継いで歴史の書を書き始めていた。のちの『史記』である(『史記』の完成)。司馬遷は自序で、上は伝説の黄帝から下は太初の改暦に至るまでを記す、と書いている。数年後、司馬遷は匈奴に降った将軍の李陵をかばって武帝の怒りに触れ、宮刑を受けることになる。暦を作った人が、その暦の時代の歴史を、辱めに耐えながら書き上げたのである。
太初暦は前漢の末に劉歆によって整理され、三統暦と名を変えて使われた。後漢の85年に新しい暦に切り替えられるまで、およそ190年にわたって用いられている。計算の細部は後の暦で何度も改められたが、立春のころを正月とし、中気で閏月を決めるという太初暦の骨組みは、中国だけでなく、朝鮮、ベトナム、日本の暦にも長く受け継がれた。明治の初めに日本が太陽暦へ切り替えるまで、日本の人々もこの骨組みの上で暮らしていたことになる。