概要
輸血は17世紀から試みられ、しばしば患者を殺した。ラントシュタイナーは、同僚と自分の血を組み合わせ、混ぜると固まる組と固まらない組があることに気づいた。A、B、C(後のO)。翌年、弟子がABを見つけた。合う血を選べば輸血は安全になる。第一次大戦で輸血が実用になり、クエン酸ナトリウムで凝固を止め、冷やして運ぶ「血液銀行」が生まれた。彼は1930年にノーベル賞。後にRh因子も見つけた。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
カール・ラントシュタイナーAD1868年6月14日–AD1943年6月26日 · 見つけた本文
輸血の歴史は、失敗の歴史だった。
1667年、フランスのジャン=バティスト・ドニが、子羊の血を15歳の少年に輸血した。少年は生き延びた(量が少なかったため)。三人目の患者が死に、裁判になり、フランスでは輸血が禁じられた。
1818年、ロンドンの産科医ジェームズ・ブランデルが、分娩後出血の女性に、夫の血を輸血した。人から人への輸血の始まり。彼の症例10例のうち、生存は5例。
なぜ、うまくいくときと、いかないときがあるのか。分からなかった。
輸血された患者は、しばしば、寒気と、発熱と、腰の痛みを訴え、赤い尿を出して、死んだ。
**カール・ラントシュタイナー**。ウィーン大学病理解剖学研究所の助手。
1900年、彼は論文の脚注に、こう書いた。「健康な人の血清が、他の健康な人の赤血球を凝集させることがある」。
**1901年の実験**。彼は、自分と、研究室の5人の同僚(合計6人)の血を採った。
血清(血液を固めて分離した上澄み)と、赤血球を、それぞれ分けた。そして、6×6の組み合わせで、混ぜた。
固まる組み合わせと、固まらない組み合わせが、規則的に現れた。
彼は、3つの群に分けた。**A、B、そしてC**(後に**O**と呼ばれる。ドイツ語の ohne=「なし」から、あるいは数字のゼロから)。
1902年、彼の弟子アルフレート・フォン・デカステロとアドリアーノ・シュトゥルリが、より多くの人を調べて、第4の型(**AB**)を見つけた。
**規則**。A型の人の血清には、B型の赤血球を攻撃する抗体(抗B)がある。B型の人には抗A。O型の人には両方。AB型の人には、どちらもない。
だから、O型はほぼ誰にでも輸血でき(万能供血者)、AB型はほぼ誰からでも受けられる(万能受血者)。
(実際には、血漿の抗体や、他の血液型系の問題があるので、この単純化には限界がある。)
**遅れ**。この発見は、10年以上、ほとんど注目されなかった。ラントシュタイナー自身も、しばらく別の研究(ポリオのウイルス性の証明。1908年)に向かった。
臨床で使われ始めたのは、1907年、ニューヨークのルーベン・オッテンバーグが交差適合試験(患者と供血者の血を実際に混ぜて確かめる)を導入してからである。
**戦争**。
第一次大戦が、輸血を実用の技術に変えた。
- **抗凝固**。1914〜15年、複数の研究者が、クエン酸ナトリウムを加えれば血液が固まらないことを示した。これで、採血してすぐ輸血する必要がなくなった。 - **保存**。ブドウ糖を加え、冷蔵すれば、数週間持つ。 - **貯蔵**。1917年、オズワルド・ロバートソンが、西部戦線に、氷で冷やした血液の箱を持ち込んだ。世界最初の「血液銀行」。
1937年、シカゴのクック郡病院に、その名を冠した施設ができた。
**第二次大戦**。アメリカの黒人医師**チャールズ・ドリュー**が、血漿の大量保存と輸送の方法を確立し、イギリスへ血液を送る計画(Blood for Britain)を主導した。
その彼が、赤十字が「黒人の血と白人の血を分けて保存する」方針を決めたとき、抗議して辞任した。科学的な根拠は、まったくなかった。この分離は、アメリカのいくつかの州で1970年代まで続いた。
**Rh因子**。1940年、ラントシュタイナーとアレクサンダー・ウィーナーが、アカゲザル(Rhesus)の血で免疫した血清が、人の赤血球の85%を凝集させることを示した。
これが、新生児溶血性疾患(Rh陰性の母が、Rh陽性の胎児に対して抗体を作り、次の子を攻撃する)の原因だった。1960年代、抗D免疫グロブリンの予防投与で、この病はほぼ防げるようになった。
**その後**。ABO以外にも、数十の血液型系が見つかっている。
1930年、ラントシュタイナーはノーベル生理学・医学賞を受けた。彼はニューヨークのロックフェラー研究所で研究を続け、1943年、研究室でピペットを持ったまま心臓発作を起こし、2日後に死んだ。