できごと

血液型の発見

The discovery of blood groups
AD1901年
重要度 5
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェーオーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国アルジェリアモロッコイタリア中央アジアの諸ハン国ルーマニアアイスランドチュニジアオマーンブルガリアギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1901年ウィーン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1901年の版図を描いています(27勢力)。

概要

輸血は17世紀から試みられ、しばしば患者を殺した。ラントシュタイナーは、同僚と自分の血を組み合わせ、混ぜると固まる組と固まらない組があることに気づいた。A、B、C(後のO)。翌年、弟子がABを見つけた。合う血を選べば輸血は安全になる。第一次大戦で輸血が実用になり、クエン酸ナトリウムで凝固を止め、冷やして運ぶ「血液銀行」が生まれた。彼は1930年にノーベル賞。後にRh因子も見つけた。

場所

ウィーン
48.21°N 16.37°E · オーストリア

関わった人(1)

カール・ラントシュタイナーAD1868年6月14日–AD1943年6月26日 · 見つけた

本文

血を失って死にかけている人に、別の人の血を入れる。そうすれば助かるのではないか。そう考えた人は昔からいた。だが、輸血の歴史は長いあいだ、失敗の歴史だった。

血が体の中をめぐっていることを、イギリスのハーヴェイが示したのは1628年である(ハーヴェイの血液循環)。それから四十年ほどたった1667年、フランスの医師ジャン=バティスト・ドニは、熱病で衰弱した十五歳の少年に、子羊の血を輸血した。少年は生き延びた。入れた量が少なかったためと考えられている。ドニはその後も何人かに動物の血を輸血したが、輸血を受けた患者の一人が亡くなり、ドニは殺人の罪で訴えられた。裁判ではドニの罪は問われなかったものの、フランスでは輸血が事実上禁じられ、ほかの国でも試みはしばらく途絶えた。

血液型を示すウクライナ軍の制服の表示「B(III)Rh+」
血液型を示すウクライナ軍の制服の表示「B(III)Rh+」Wikimedia Commons Министерство обороны Украины/сканировано Vizu · Public domain

人から人への輸血が試みられたのは、十九世紀に入ってからである。ロンドンの産科医ジェームズ・ブランデルは、出産のあとの大出血で死にかけた女性たちに、夫や助手の血を注射器で輸血した。彼が手がけた十人ほどの患者のうち、助かったのはおよそ半分だった。

なぜ、うまくいくときと、いかないときがあるのか。誰にも分からなかった。輸血を受けた患者は、しばしば寒気と高い熱に襲われ、腰の痛みを訴え、赤黒い尿を出して死んだ。入れた血の赤血球が、患者の体の中で壊されていたのだが、その理由は分からなかった。十九世紀の後半には、羊などの動物の血を人に入れると、血が固まったり壊れたりすることが知られていたが、人と人との間でも同じことが起きているとは、考えられていなかった。

カール・ラントシュタイナーの肖像
カール・ラントシュタイナーWikimedia Commons Henry Lytton Cobbold · Public domain

その謎を解いたのが、ウィーン大学の病理学の研究所で助手をしていたカール・ラントシュタイナーである。1900年、彼は論文の脚注に、健康な人の血清が、別の健康な人の赤血球を固まらせることがある、と書いた。血清とは、血液が固まったあとに分かれる、透き通った黄色い液体である。それまで、血がこのように固まるのは病気の人の血に限られると思われていた。

1901年、ラントシュタイナーは、自分と研究室の同僚、あわせて六人の血を採った。それぞれの血を、血清と赤血球に分ける。そして、ある人の血清と別の人の赤血球を、すべての組み合わせで混ぜてみた。すると、赤血球が固まって粒になる組み合わせと、何も起きない組み合わせが、はっきりとした規則で現れた。

彼は、人の血を三つの群に分けた。A、B、そしてCである。Cはのちに「O」と呼ばれるようになった。ドイツ語の「無い」という言葉の頭文字から来たとも、数字のゼロから来たとも言われる。翌1902年、彼の研究室の二人の研究者が、もっと多くの人の血を調べ、四つ目の型を見つけた。のちのAB型である。

規則はこうである。A型の人の赤血球の表面には、Aという目印がある。B型の人にはBの目印、AB型の人には両方があり、O型の人にはどちらも無い。そして血清の中には、自分が持っていない目印を攻撃する抗体がある。A型の人の血清にはBを攻撃する抗体があり、B型の人の血清にはAを攻撃する抗体がある。O型の人の血清には両方の抗体があり、AB型の人にはどちらも無い。合わない赤血球が入ってくると、抗体がそれを固まらせて壊してしまう。輸血で患者が死んでいたのは、このためだった。

だから、輸血を受ける人と同じ型の血を選べば、輸血は安全になる。O型の赤血球は目印を持たないので、多くの人に輸血できる。AB型の人は抗体を持たないので、多くの型から受け取れる。ただし実際には、血液の液体の部分の抗体や、ABO以外の血液型も関わるので、この単純な見方には限りがある。

この発見は、すぐには注目されなかった。ラントシュタイナー自身も、しばらくほかの研究に向かい、1908年には小児まひがウイルスによる病気であることを示している。輸血の現場で血液型が使われ始めたのは、1907年、ニューヨークの医師ルーベン・オッテンバーグが、輸血の前に患者と提供者の血を実際に混ぜて、固まらないことを確かめる検査を始めてからである。

輸血を実用の技術に変えたのは、第一次世界大戦だった。戦場では、大量の血を失った兵が次々に運び込まれる。1914年から翌年にかけて、何人もの研究者が、クエン酸ナトリウムを加えれば血液が固まらないことを示した。これで、提供者の腕から患者の腕へ、その場で血を移す必要がなくなった。さらにブドウ糖を加えて冷やしておけば、血は数週間持つことが分かった。1917年、アメリカの軍医オズワルド・ロバートソンは、西部戦線で、あらかじめ採っておいたO型の血を氷で冷やして蓄え、負傷兵に輸血した。のちの血液銀行の始まりである。1937年には、シカゴの病院に「血液銀行」と名付けられた施設が開かれた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

第二次世界大戦では、輸血はさらに大規模になった。アメリカの黒人の外科医チャールズ・ドリューは、血液から血漿を分けて大量に保存し、遠くへ運ぶ方法を確立し、空襲にさらされたイギリスへ血漿を送る計画を指揮した。そのドリューは、アメリカ赤十字が、黒人の血と白人の血を分けて保存し、白人の兵には白人の血しか使わないという方針を決めたとき、抗議して血液事業の職を退いた。血液型は人種と何の関係もなく、その方針には科学的な根拠がまったくなかった。

ラントシュタイナーは1920年代の初めにアメリカへ渡り、ニューヨークのロックフェラー研究所で研究を続けた。1930年、血液型の発見によってノーベル生理学・医学賞を受けている。1940年には、共同研究者とともに、アカゲザルの血で作った血清が人の赤血球の多くを固まらせることを見つけた。これが「Rh因子」である。Rhを持たない母親が、Rhを持つ子を身ごもると、母親の体が子の血を攻撃する抗体を作り、次に身ごもった子の赤血球を壊してしまうことがある。新生児が重い黄疸や貧血で亡くなる病の原因の一つは、これだった。1960年代には、この抗体ができるのを防ぐ注射が開発され、この病の多くは防げるようになった。

1943年、ラントシュタイナーは研究室で作業中に心臓の発作を起こし、二日後に亡くなった。七十五歳だった。ABO式とRh式のほかにも、いまでは数十の血液型の系統が見つかっている。輸血は、毎日、世界中の病院で、数えきれない命を救っている。

一方で、血液型は思わぬ方向にも使われた。日本では、昭和の初めに血液型と人の気質を結びつける説が唱えられ、のちに大衆の占いとして広まっていく(血液型で性格を占う)。科学的な根拠は確かめられていない。また、血液から作る薬がウイルスに汚染され、多くの人が感染する悲劇も起きた(薬害エイズ)。他人の血を体に入れる技術は、救う力の大きさと同じだけ、細心の注意を求め続けている。

同じ時代のできごと

ヘブライ語の復活AD1881年明治十四年の政変AD1881年サグラダ・ファミリアAD1882年医者が来るまでの手当てAD1880年代冷蔵船AD1882年帝王切開で母が生きるAD1882年ウラービー運動AD1882年9月13日中国人排斥法AD1882年5月6日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1901年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →