人物

ラーズィー

al-Razi (Rhazes)
AD865年頃 – AD925年頃(享年60・推定)
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)重要度 4

概要

レイの音楽家が30歳で医学を学び、バグダードの病院の長になった。病院の場所を、街のあちこちに肉を吊るして腐り方で決めた。天然痘と麻疹を初めて区別し、ガレノスを批判し、200の本を書いた。晩年、失明した。

所属

カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)

関わったできごと(1)

ラーズィー『天然痘と麻疹について』AD900年頃 · 著者

本文

ラーズィーは、正式な名をアブー・バクル・ムハンマド・イブン・ザカリーヤー・アッラーズィーという。865年頃、イラン北部のレイ(いまのテヘランの南)で生まれた。「ラーズィー」は「レイの人」という意味で、ラテン語の世界ではラゼスと呼ばれた。

若い頃については、いくつかの話が伝わる。ウード(琵琶に似た弦楽器)を弾いて歌う音楽家だったが、髭の生えた男が歌うのは見苦しいと考えて学問に転じた、という話。錬金術の実験で目を傷め、その治療をきっかけに医学を学んだ、という話。どれも後世の伝記作家が書いたもので、確かではない。ただ、彼が錬金術に詳しく、実験の書を残したことは確かである。『秘密の書』では、物質を鉱物・植物・動物に由来するものに分け、蒸留や昇華などの操作と、そのための器具を具体的に記している。金を作るという目的は別にして、その記述は化学の実験の手引きとして読める。医学を学び始めたのは30歳前後とされる。

ラーズィーは故郷レイの病院の長を務め、のちにアッバース朝の都バグダードの病院でも長を務めた(カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース))。新しい病院の場所を選ぶとき、町のあちこちに肉を吊るし、いちばん腐りにくかった場所に建てた、という有名な話がある。ただ、この話が結びつけられている病院は彼の死後に建てられたもので、伝説とみられている。

彼の医学の特徴は、書物の権威よりも、自分の目で見た患者の経過を重んじたことにある。病院で診た患者の症状と治療の結果を記録し、それを古代の学説と突き合わせた。死後に弟子たちが彼の膨大な覚え書きをまとめた『ハーウィー(包括の書)』には、ギリシア、インド、アラブの医学の知識とともに、彼自身の臨床の記録が多く含まれている。

天然痘と麻疹についての論文は、二つの病気を症状の違いから区別して記述したもので、伝染病の観察の古典とされる(ラーズィー『天然痘と麻疹について』)。この書は中世にラテン語に、近代には英語などにも訳された。子どもの病気だけを扱った書を書き、バラの花の季節に鼻水やくしゃみが出る人の症状も記録している。

ラーズィーは、古代ローマの医学者ガレノスを深く学びながら、その誤りを指摘する『ガレノスへの疑問』を書いた(ガレノスの医学)。自分はガレノスに多くを負っているが、真理は師より重い、とその書で述べている。

レイの太守マンスール・イブン・イスハークに捧げた医学の概説『マンスールの書』は、12世紀にラテン語に訳された。特に頭から足までの病気の治療を扱った第9巻は、独立した教科書としてヨーロッパの大学で使われ、16世紀以降も講義に用いられた。彼の名は、のちのイブン・スィーナーと並んで、ヨーロッパでイスラーム医学を代表する名前になった。

医学のほかに、彼は哲学者でもあった。心の病を理性で治める方法を説いた『精神の医学』や、哲学者にふさわしい生き方を論じた書を書いた。また、理性は神がすべての人に等しく与えた最大の贈り物であり、特定の人だけに啓示が与えられるという考えは受け入れがたい、と論じたとされる。この主張を記した書物は残っておらず、同じレイ出身のイスマーイール派の論客が書いた反論の中に引用されて伝わっているだけである。そのため、彼の宗教観は論争の的になってきた。

彼は貧しい患者を無料で診たと伝えられる。生涯に書いた著作は200点近くにのぼり、11世紀の学者ビールーニーがその目録を残している。

晩年、ラーズィーは目を患って失明した。白内障の手術を勧められたが、もう十分にこの世を見たと言って断った、という話が伝わる。925年頃、あるいは935年頃、故郷のレイで死んだ。彼が示した、患者を観察し、記録し、権威を疑う姿勢は、その名とともにヨーロッパの医学に長く受け継がれた。

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