ロベルト・コッホ
概要
田舎医者が妻に贈られた顕微鏡で炭疽菌を見た。1882年、結核菌。1883年、コレラ菌。「コッホの原則」。病気が菌で起きることを、菌ごとに証明した。ツベルクリンは治療に失敗した。1905年ノーベル賞。北里柴三郎の師。
関わったできごと(1)
ハンブルクのコレラAD1892年8月 · 調査本文
1843年12月11日、ドイツ北部ハルツ山地の鉱山町クラウスタールで、鉱山技師の家に生まれた。13人きょうだいの3番目で、子どものころから虫や植物を集め、顕微鏡にあこがれた。ゲッティンゲン大学で医学を学び、病気は目に見えない生き物によって起こるのではないかと唱えた解剖学者ヘンレの講義を聞いた。1866年に医師となり、普仏戦争では軍医として従軍した。

その後、プロイセン東部のポーゼン州の小さな町ヴォルシュタインで郡の医官となった。患者を診る忙しい田舎の医者だったが、28歳の誕生日に妻エミーから顕微鏡を贈られ、診察室の一角を仕切って小さな実験室を作った。当時、この地方では羊や牛が炭疽という病気でばたばたと死んでいた。病んだ動物の血の中に棒のような細菌が見えることはすでに知られていたが、それが本当に病気の原因なのかは分かっていなかった。
彼は、ハツカネズミの尾に病気の血を植えて病気がうつることを確かめ、さらに牛の目の液体の中で菌を育てて、菌が増え、条件が悪くなると丈夫な胞子になり、その胞子が何年も土の中で生き延びて再び病気を起こすことを突き止めた。1876年、彼はブレスラウ大学の植物学者コーンを訪ね、数日かけて実験を見せた。コーンは無名の田舎医者の仕事に驚き、論文の発表を助けた。特定の細菌が特定の病気を起こすことを、初めて筋道立てて示した仕事だった。翌年には、細菌を顕微鏡写真に撮る方法も工夫している。

1880年、ベルリンの帝国衛生局に招かれた。ここで彼は、細菌を一種類ずつ分けて育てる方法を作り上げた。ジャガイモの切り口やゼラチンで菌を育てるやり方は温度で溶けるなどの欠点があったが、助手の妻ファニー・ヘッセが、ジャムやゼリーを固めるのに使っていた寒天を勧めた。寒天の平らな培地の上では、一つの菌から増えた集まりが粒として並び、それを拾えば純粋な菌が得られる。助手のペトリが作った浅いガラスの皿は、いまもその名で呼ばれている。
1882年3月24日、ベルリンの生理学会で、彼は結核の原因となる菌を見つけたと発表した。当時ヨーロッパでは、死者の7人に1人が結核で死んでいるとされた。結核菌は染まりにくく、育てるのに何週間もかかる。彼は特別な染め方で菌を見えるようにし、患者の組織から菌を取り出して育て、動物に植えて同じ病気を起こし、その動物から再び同じ菌を取り出した。この手順は後に「コッホの原則」としてまとめられ、ある微生物がある病気の原因だと言うための基準になった。会場は静まり返り、誰も質問をしなかったと、聞いていた若い医師が書き残している。いまでは3月24日は世界結核デーとされている。

1883年、エジプトとインドでコレラが流行すると、フランスのルイ・パスツールの弟子たちとドイツのコッホの調査団が競って現地に向かった。コッホはカルカッタで、患者の腸からコンマのように曲がった菌を見つけ、溜め池の水からも同じ菌を見出して、コレラが水を通して広がることを示した。ロンドンでは30年ほど前に医師スノウが井戸の水を疑っていたが(ジョン・スノウのコレラ地図)、原因となる生き物を目に見える形で示したのはコッホだった。1892年にハンブルクでコレラが流行したときには(ハンブルクのコレラ)、現地に乗り込んで、ろ過していない川の水を飲み水にしていたことが原因だと指摘した。帰国した彼は国民的な英雄として迎えられた。普仏戦争の後のフランスとドイツの対抗意識もあって、パスツールとの張り合いは激しく、論文や学会で互いを厳しく批判し合った。
1890年、彼は結核の治療薬を作ったと発表した。結核菌から作ったこの液体はツベルクリンと名づけられ、ヨーロッパ中から患者がベルリンに押し寄せた。しかし治療の効果は見られず、かえって病状を悪くして死ぬ患者も出た。中身を秘密にして売ろうとしていたことも批判され、名声は大きく傷ついた。ただ、ツベルクリンはやがて結核にかかったことがあるかを調べる検査に使われるようになり、日本でもツベルクリン反応として長く使われた。

1891年、彼のために伝染病研究所がベルリンに作られた。ここには血清療法のベーリングや、化学療法のエールリヒが集まり、日本から来た北里柴三郎も彼のもとで破傷風菌の純粋培養に成功した(血清療法の確立)。私生活では1893年、50歳を前に妻エミーと離婚し、30歳近く年下の若い画学生ヘートヴィヒと再婚して、世間を騒がせた。
晩年の彼は、世界を回って伝染病と闘った。南アフリカでは牛の疫病を、インドではペストを、熱帯の各地ではマラリアを、東アフリカでは眠り病を調べた。1901年、牛の結核は人にはほとんどうつらないと述べたのは誤りで、後に批判を浴びた。1905年、結核の研究でノーベル生理学・医学賞を受けた。1908年には日本を訪れ、北里の歓迎を受けて各地を回った。

1910年5月27日、保養先のバーデン・バーデンで心臓の病のため66歳で亡くなった。病気を起こす細菌を一つずつ突き止めるための方法を作り、それを使って結核とコレラの正体を明らかにしたことで、パスツールと並ぶ近代細菌学の祖とされる。北里柴三郎は師の死後、自分の研究所の中に師をまつる祠を建てた。祠はいまも北里研究所に残っている。