アレクサンダー・フレミング
概要
スコットランドの農家の子。船会社の事務員から、遺産で医学校へ。射撃部に入るためにセント・メアリー病院を選んだ。第一次大戦で、消毒薬が傷を悪くするのを見た。1922年、リゾチーム(自分の鼻水から)。1928年、ペニシリン。だらしなくて、シャーレを洗わなかった。精製はフローリーとチェインで、名声はフレミングに来た。1945年、3人でノーベル賞。「私は自然の作ったものを見つけただけだ」。
関わったできごと(1)
ペニシリンの発見AD1928年9月28日 · 見つけた本文
1881年8月6日、スコットランド南西部エアシャーの丘の上の農場、ロッホフィールドで生まれた。8人きょうだいの7番目で、父は彼が7歳のときに亡くなった。農場の周りの荒れ野を駆け回り、魚を手でつかまえて遊ぶ少年だった。後に彼は、自然を注意深く見ることはそのころに身についたと語っている。13歳でロンドンに出て、医者をしていた兄の家に身を寄せ、学校を終えると船会社の事務員として4年間働いた。

1901年、叔父が亡くなって250ポンドの遺産が入った。医者の兄に勧められて医学校を受け、優秀な成績で入学した。いくつもある病院付属の医学校からセント・メアリー病院を選んだのは、水球の試合で対戦したことがあったから、という気軽な理由だった。成績は抜群で、卒業後は外科医になるつもりだったが、病院の射撃部の部長が、腕のいい射手である彼を引き留めようとして、細菌学者アルムロス・ライトの研究室に誘った。結局、彼は生涯この病院の研究室で働くことになる。
ライトは、ワクチンで体の抵抗力を高めて病気を治すことを唱えていた。抗菌薬のない時代である。フレミングは、1910年にドイツのエールリヒが作った梅毒の薬サルバルサンを、ロンドンでいち早く患者に使った医師の一人となった。注射の腕がよく、色の違う細菌で寒天の上に絵を描いて楽しむような茶目っ気のある研究者だった。
第一次世界大戦が始まると、ライトとともにフランスのブローニュの野戦病院へ行き、兵士の傷の感染を調べた。当時は傷口を強い消毒薬で洗うのが普通だったが、彼は、消毒薬は傷の奥の菌まで届かず、かえって菌と戦う白血球を先に殺してしまうことを、傷の形を模したガラス管を使った実験で示した。傷は消毒薬で悪くなっていたのである。外科医たちの多くは耳を貸さなかったが、体を傷つけずに菌だけを殺す物質を探すことが、彼の生涯の課題になった。

1921年、風邪をひいていた彼は、自分の鼻水を細菌の培地に垂らしてみた。すると、そのまわりの菌が溶けて消えた。涙や唾液、卵の白身にも同じ働きがあった。リゾチームと名づけたこの物質は、病気を起こす菌にはあまり効かなかったが、体の中に菌を溶かす物があることを示し、菌が消えるという現象を見逃さない目を彼に与えた。
1928年9月、夏の休暇から戻った彼は、実験台に積んだままにしていたブドウ球菌の皿の一枚に、青カビが生えているのに気づいた。カビのまわりだけ、菌が溶けて透き通っていた(ペニシリンの発見)。彼はそのカビを育て、カビが出す物質が多くの病原菌を殺し、しかも白血球を傷つけないことを確かめた。菌を平らな皿で育てる方法は、半世紀前にロベルト・コッホの研究室で生まれたものである。カビの名ペニシリウムから、ペニシリンと名づけ、翌年に論文を書いた。散らかった研究室と、片付けを怠ったことが、偶然を呼んだ。ただし、その偶然を発見に変えたのは、リゾチームの経験で鍛えた観察である。

けれども、ペニシリンは不安定で、純粋な形に取り出すことができなかった。化学者の協力も得られず、彼は病気の治療に使うことを半ばあきらめて、菌を選り分ける道具として使い続けた。10年後、オックスフォード大学のフローリーとチェインがこの古い論文を掘り起こし、1940年、精製したペニシリンが感染したマウスを救う実験を発表した。それを読んだフレミングがオックスフォードを訪ねてきたとき、チェインは、彼がまだ生きていたのかと驚いたという。
1942年、フレミングはフローリーから分けてもらったペニシリンで、髄膜炎で死にかけていた友人を救った。新聞が奇跡の薬を報じると、師のライトが『タイムズ』に投書して、最初の発見者はフレミングだと訴えた。宣伝を嫌って取材を断ったフローリーに対し、フレミングは記者の質問に気さくに応じ、カビの皿の物語は世界に広まった。第二次世界大戦のさなか、ペニシリンはアメリカで大量に作られるようになり、1944年のノルマンディー上陸では多くの負傷兵の命を救った。

1944年にナイトの称号を受け、1945年にはフローリー、チェインとともにノーベル生理学・医学賞を受けた。受賞講演で彼は、ペニシリンを少しだけ使えば菌が薬に強くなる、無知な使い方が人を死なせるかもしれない、と警告している。いま世界が直面している薬の効かない菌の問題を、発見者自身が最初に予言していたのである。
晩年は世界中から招かれ、多くの名誉博士号と勲章を受けた。1949年に妻サラを亡くし、1953年に研究室の同僚だったギリシア人の医師アマリアと再婚した。1955年3月11日、ロンドンの自宅で心臓発作のため73歳で亡くなり、セント・ポール大聖堂に葬られた。少年時代のチャーチルを助けた農夫の息子がフレミングだったという話が広く出回っているが、これは事実ではない。本人は、ペニシリンを作ったのは自然で、自分はそれを見つけただけだ、と語り続けた。