人物

マシュー・モーリー

Matthew Fontaine Maury
AD1806年1月14日 – AD1873年2月1日(享年67)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

ヴァージニア。海軍士官。33歳のとき駅馬車の事故で脚を痛め、海に出られなくなった。海図倉庫の管理を任され、そこに積まれていた古い航海日誌を数十年ぶん読んで、風と海流の統計を作った。「海の道を探る者」。1855年『海の自然地理学』は海洋学の最初の教科書とされる。南北戦争で南部に付き、戦後は一時メキシコへ亡命した。大西洋横断ケーブルの海底の測深にも関わった。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

モーリーの風と海流の図AD1855年 · 集めた

本文

マシュー・フォンテーン・モーリーは1806年1月14日、ヴァージニア州スポットシルヴェニア郡に生まれた。5歳のとき、一家は西のテネシーへ移った。父は息子を農夫にするつもりだった。

ニューヨークにあるモーリーの胸像
ニューヨークにあるモーリーの胸像Wikimedia Commons Jim.henderson · Public domain

兄のジョンは海軍士官だったが、黄熱病にかかって若くして死んだ。父は次男まで海にやることに反対したが、モーリーは1825年、19歳で海軍に入った。士官候補生として最初に乗ったフリゲート艦ブランディワインは、アメリカ独立戦争の英雄ラファイエットを訪問先のアメリカからフランスへ送り届ける航海に出るところだった。その後の9年間で、彼はスループ艦ヴィンセンズの世界周航に加わり、太平洋を渡り、南米を回った。

船の上で、彼は航法を独学で学び続けた。1836年、30歳で出した『航海学の新理論』は、海軍の教科書に採用された。

マシュー・モーリーの肖像
マシュー・モーリーの肖像Wikimedia Commons Brendann · Public domain

1839年10月、休暇で家族のもとへ向かう途中、乗っていた駅馬車が横転した。右の大腿骨を折り、膝を傷めた。骨はうまく接がれず、彼は生涯足を引きずることになった。33歳で、海上勤務の道は閉ざされた。

陸にいるあいだ、彼は「ハリー・ブラフ」という筆名で、海軍の非効率と縁故人事を批判する論説を新聞に書いた。これが評判を呼び、海軍の改革論議を動かした。1842年、ワシントンの海図・器具保管所の所長に任じられた。のちの海軍天文台である。

ヴィンセンズ号のカラーリトグラフ(1845年)
ヴィンセンズ号のカラーリトグラフ(1845年)Wikimedia Commons N. Currier · Public domain

保管所には、海軍の艦船が提出した古い航海日誌が木箱に詰められ、誰にも読まれないまま積まれていた。日誌には、毎日の位置、風向き、風の強さ、海流、水温が書き込まれている。モーリーはこれを海域と月ごとに集計し、図に起こした。1847年、最初の『風と海流の図』が出た(モーリーの風と海流の図)。どの季節に、どの航路をとれば追い風と海流に乗れるかが、統計として見えるようになった。

彼は図を配る代わりに、船長たちに同じ書式で観測を記録し、送り返すよう求めた。集まるデータが増えるほど図は正確になり、たとえばニューヨークから赤道を越える航路で、航海日数が大きく縮んだと報告された。1853年にはブリュッセルで、彼の呼びかけにより10か国が集まり、海上の気象観測を共通の書式で行い、その記録を交換することで合意した。国境を越えた科学の協力として、最も早い成功例の一つである。

1855年の『海の自然地理学』は、海洋学をひとつの学問として扱った最初の総合的な本とされる。彼の部下たちは大西洋の水深を系統的に測り、その中央部に浅い高まりがあることを示した。モーリーはこれを、海底に電信線を敷くのに向いた「電信台地」と呼び、大西洋横断電信ケーブルの計画を後押しした。

大西洋横断電信ケーブルに関わる図版:Atlantic cable Map
大西洋横断電信ケーブルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼は敬虔なキリスト教徒で、旧約聖書の詩篇8篇にある「海の道を通うもの」という句を、自分の仕事の支えにしていた。聖書に書いてあるのだから海には道があるはずだ、と言って探し始めた、という話はよく語られるが、後世にふくらんだ逸話の面がある。

1861年、南北戦争が始まり、故郷ヴァージニアが連邦を離れた。モーリーは連邦海軍を辞め、南部連合についた。担当したのは、当時「魚雷」と呼ばれた水中の機雷の開発である。電気で点火する機雷をジェームズ川に敷き、北軍の艦船の動きを妨げた。やがてイギリスへ送られ、軍艦の調達にあたった。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

1865年に南部が敗れると、彼はイギリスからメキシコへ渡り、フランスが立てた皇帝マクシミリアンのもとで移民を担当する役職に就いた。敗れた南部の人々を入植させる計画だったが、黒人の労働者を伴わせる構想を含み、形を変えて奴隷制のやり方を持ち込むものだと批判されている。マクシミリアンの政権が倒れると、計画も消えた。

1868年に恩赦を受けて帰国し、レキシントンのヴァージニア軍事学校で物理学を教えた。州の気象観測網を整えることや、農業に気象の知識を生かすことを説いて、各地で講演した。1873年2月1日、レキシントンで死んだ。67歳だった。

モーリーの1834年の論文にある、真の月距離を求める器具
モーリーの1834年の論文にある、真の月距離を求める器具Wikimedia Commons Matthew Fontaine Maury · Public domain

同時代のヨーロッパの科学者たちは、大気の循環についての彼の理論を粗いと批判した。それは当たっていた。彼は理論を組み立てる人ではなく、集めて並べる人だった。それでも、観測の書式をそろえ、皆で共有し、統計にするという彼の枠組みは、そのまま近代の気象学と海洋学の土台になった(最初の天気予報)。一方で南部連合に仕えた経歴は消えず、リッチモンドにあった記念像は2020年に撤去された。

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