蒸留とアランビク
概要
液体を熱して蒸気にし、冷やして集める。分離の技術である。原型は古代からあったが、アラビアの錬金術師が装置と手順を洗練させた。アル=アンビーク(蒸留器)、アル=クフル(微細な粉、のちにアルコール)、アル=イクスィール(霊薬、エリクサー)。目的は酒ではなく、薬と、香料と、そして物質の本質を取り出すことだった。この装置がヨーロッパへ渡り、修道院で「生命の水」を生み、蒸留酒の系譜が始まる。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
関わった人(1)
ジャービル・イブン・ハイヤーンAD8世紀–AD815年頃 · 洗練させた本文
液体を熱すると、沸点の低い成分から先に蒸気になる。その蒸気を集めて冷やせば、また液体に戻る。こうして混ざっていたものを分けるのが蒸留である。単純な原理だが、それを確かな技術にし、装置と手順を整えるまでには長い時間がかかった。
原型は古代からあった。メソポタミアの紀元前2千年紀の粘土板には、香料を取り出す手順と読める記述がある。2〜3世紀ごろのアレクサンドリアでは、錬金術の伝承の中で最初期の重要人物とされる「ユダヤ女マリア」が、いくつもの装置を考えたと伝えられる。三本の管を持つ蒸留器トリビコスや、金属を蒸気で処理するケロタキスなどである。直火ではなく湯を張った器に入れて穏やかに熱する方法も、彼女の名で呼ばれた。「マリアの湯浴」は、いまもフランス語でバン・マリー、日本語で湯煎と呼ばれる台所の技法として残っている。
この技術を大きく磨いたのが、8世紀から10世紀のアッバース朝の錬金術師たちだった。都バグダード(バグダードの建設)にはバグダードの知恵の館が置かれ、ギリシア語の学術書が次々にアラビア語へ訳されていた。その中心に名を置かれるのが、ラテン名でゲーベルと呼ばれたジャービル・イブン・ハイヤーンである。彼の名で伝わる著作はあまりに膨大で、実際には何世代にもわたる複数の書き手による文書の集まりと考えられている(ジャービルの錬金術)。

彼らの残した言葉は、いまも私たちの語彙に残っている。蒸留器はアル=アンビークと呼ばれ、ギリシア語の「杯」にアラビア語の定冠詞が付いた語で、ヨーロッパではアランビクになった。下に液を入れる釜があり、その上に兜のような蓋をかぶせ、兜から横へ管が伸びる。釜で生まれた蒸気は兜の内側で冷えて集まり、管を伝って受け器に滴り落ちる。
アルコールの語源のアル=クフルは、もともとはアンチモンなどを細かく砕いた粉を指し、目の縁に塗る化粧墨のことだった。それが「極めて細かく精製されたもの」へと意味を広げ、のちにヨーロッパで、蒸留で得られる酒の精を指すようになる。霊薬エリクサーはアル=イクスィール、錬金術そのものはアル=キーミヤーで、ここから化学(ケミストリー)という言葉も生まれた。

彼らの目的は酒ではなかった。イスラームは飲酒を禁じている。もっとも、宮廷では実際には酒が飲まれ、詩人アブー・ヌワースは酒をたたえる詩で名高い。9世紀の哲学者アル=キンディーは、ワインを蒸留する方法に触れているとされる。それでも、蒸留が向けられた主な先は、酒よりも薬と香料と、物質の本質を知ることだった。
薬では、植物から効き目のある成分を取り出した。香料では、薔薇の花びらを蒸留して作るローズウォーターが大量に作られ、遠くまで輸出された。イブン・スィーナーは、水蒸気で花や草から精油を取り出す方法を記したとされ、これが香水の技術の土台になったと言われる。そして錬金術の目標は、物質をばらばらにし、その本質を取り出し、組み替えることにあった。金を作ることばかりが語られるが、根にあったのは、物が何でできているのかを知ろうとする探究である。その過程で、硫酸や硝酸、金を溶かす王水などが見いだされ、蒸留、結晶化、濾過の技術が磨かれた。実験の手順を、他人が繰り返せる形で書き残す習慣もここで育った。

12世紀になると、アラビア語の書物がスペインのトレドやシチリアでラテン語に訳され、技術はヨーロッパへ渡った。南イタリアのサレルノの医学校や南フランスのモンペリエで、ワインを蒸留して強い酒精を取り出す方法が記され、それは「生命の水」(アクア・ウィタエ)と名付けられた。13世紀のモンペリエの医師アルナルドゥス・デ・ウィラ・ノウァは、これは生命の水と呼ばれるにふさわしく、老いた者を若返らせ、憂いを払い、心を喜ばせる、という趣旨のことを書いている。蒸留酒は、まず薬として修道院や薬屋で作られたのである。
「生命の水」という発想は、各地の酒の名に残った。ゲール語のウシュケ・ベーハが訛ってウイスキーになり、フランス語では蒸留酒をオー・ド・ヴィ、北欧ではアクアビットと呼ぶ。ロシア語のウォッカは「水」を意味する語に親しみを込めた形である。

原料が何であれ、発酵させてから蒸留すれば強い酒になる。だから蒸留酒は、その土地にあるもので作られた。ブドウからはブランデーやグラッパ、大麦からはウイスキー、サトウキビの糖蜜からはラム、穀物やジャガイモからはウォッカ、リュウゼツランからはテキーラ、米からは焼酎や中国の白酒。ジュニパーの実で香りを付けたものがジンである。
蒸留酒は醸造酒とは決定的に違っていた。醸造酒のアルコールはせいぜい十数パーセントだが、蒸留すれば40パーセントを超える。腐らないので長く保存でき、遠くまで運べる。同じだけのアルコールなら体積も小さい。この性質が、世界の歴史を動かすことになった。
大西洋では、ラムが交易の要の一つになった。カリブ海の島々で砂糖を作るときに出る糖蜜をニューイングランドへ運んでラムに蒸留し、そのラムを西アフリカへ運んで奴隷と交換する。蒸留酒は、大西洋奴隷貿易を回す歯車の一つだった。北アメリカやオーストラリアでは、蒸留酒が交易と植民の道具になった。酒を渡して頼らせ、毛皮や土地を手に入れる。そうした使い方の記録は多く残り、その傷は各地の先住民の共同体にいまも残っている。

18世紀前半のロンドンでは、安いジンが町にあふれた。人々が貧しい暮らしの憂さをジンで晴らし、成人1人あたり年に数十リットルが飲まれたとも推計される。1751年、画家ホガースは版画『ジン横丁』で、酔って赤子を取り落とす母親や、質屋と棺桶屋だけが繁盛する通りを描き、対になる『ビール街』では健康で勤勉な人々を描いた。同じ年にジン法が定められ、小売りが絞られ、税が上がった。のちのスコットランドでは、密造と酒税をめぐる争いがウイスキーの歴史を形づくっていく(ウイスキーと酒税)。
蒸留は、化学の基本の操作としても受け継がれた。16世紀には酒精と硫酸からエーテルが作られ、パラケルススはそれを嗅がせた鶏が眠ることに気づいていたと伝えられる。そのエーテルが、300年後のエーテル麻酔の公開で手術の麻酔になる。19世紀には原油を蒸留して灯油やガソリン、重油に分ける精製が始まった(ドレークの油井)。原理は錬金術師のアランビクとまったく同じである。照明は鯨油から石油に替わり、やがて内燃機関の時代が来た。

いまの実験室で使う蒸留装置は、蒸気の通る管のまわりに水を流して冷やす冷却器を備え、19世紀にリービッヒが広めたことからその名で呼ばれる。釜があり、蒸気が上り、管で冷えて滴る。バグダードの錬金術師が見ていたのと同じ姿が、ガラス器具の形でいまも実験台に載っている。