伊能忠敬の日本図
概要
酒造家を隠居した50歳が、19歳年下の天文学者に弟子入りし、55歳から17年、歩いて日本を測った。4万キロ。死んで3年後、弟子が『大日本沿海輿地全図』を完成させた。緯度は正確で、経度は少しずれた。シーボルトが写しを持ち出し、ヨーロッパの日本地図になった。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
伊能忠敬AD1745年2月11日–AD1818年5月17日 · 測った本文
伊能忠敬は1745年、上総国の九十九里浜に近い小関村に生まれた。17歳のとき、下総の佐原の商家、伊能家に婿として入った。伊能家は酒造を中心に、米の売買や薪の商いも手がける家で、利根川の水運でにぎわう佐原の有力者だった。忠敬は傾きかけていた家業を立て直し、名主や村の後見役も務めた。天明の飢饉のときには、私財を出して米を買い入れ、村の人々を飢えから救ったと伝えられる。
1794年、忠敬は家督を長男に譲って隠居した。数えで50歳、満で49歳である。翌年、江戸の深川に移り住み、幕府の天文方に新しく任じられた高橋至時に弟子入りした。至時は1764年生まれで、忠敬より19歳若い。西洋の天文学を取り入れた新しい暦を作るため、寛政の改革の中で大坂から呼ばれた学者だった。忠敬は若い師について天文学と暦学を学び、自宅に観測の道具をそろえて、毎日のように星を測った。仲間からは、暦の計算に熱心なことから「推歩先生」と呼ばれたという。

師弟が強く関心を寄せたのは、地球の大きさだった。緯度1度の長さが分かれば、地球の周りの長さが計算できる。それには、南北に離れた二つの地点の緯度を天体で測り、その間の距離を地上で測ればよい。江戸と蝦夷地ほど離れていれば、誤差は小さくなる。ちょうど蝦夷地の近海にロシアの船が現れるようになり、幕府は北の地図を必要としていた。至時は、地図を作るという名目で、忠敬の蝦夷地測量の許しを幕府から取りつけた。
1800年、55歳の忠敬は、弟子や従者とともに江戸を発ち、奥州街道を北へ歩いて蝦夷地へ渡った。これが第1次の測量である。距離は歩数で測った。一定の歩幅で歩けるよう訓練した忠敬の一歩は、およそ70センチほどだったとされる。のちの測量では、目盛りのついた縄や鉄の鎖を張り、車輪の回転で距離を測る量程車も使った。曲がり角ごとに方位を測り、夜になれば象限儀で星の高さを測って緯度を出した。

1801年からの第2次では伊豆から東北の太平洋岸、1802年の第3次では東北の日本海側、1803年の第4次では東海と北陸を測った。費用の多くは忠敬自身が負担していた。1804年、それまでの成果をまとめた東日本の地図が将軍に披露されると、その出来栄えが認められ、測量は幕府の事業となった。忠敬は幕臣に取り立てられ、第5次からは西日本へ向かった。各地の大名や村は、測量隊のために宿や人足を用意するよう命じられた。
同じ1804年、師の高橋至時は40歳で病死した。天文方は至時の長男の高橋景保が継ぎ、忠敬の測量を支えた。測量は1805年から1816年にかけての第5次から第10次まで続き、近畿、中国、四国、九州の海岸と街道を測り尽くした。第9次の伊豆七島の測量には、高齢の忠敬は加わらず弟子たちが向かった。測量に費やした日数は3700日を超え、歩いた道のりは合わせておよそ4万キロ、地球一周に近いとされる。
1818年、忠敬は江戸八丁堀の屋敷で74歳(満73歳)の生涯を終えた。地図はまだ完成していなかった。弟子たちと景保は忠敬の死を伏せ、作業を続けたと伝えられる。3年後の1821年、景保らは『大日本沿海輿地全図』を幕府に差し出した。3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚からなる。そのうえで、ようやく忠敬の死が公にされた。
忠敬が出した緯度1度の長さは28.2里、およそ110.7キロだった。いまの値と比べても誤差はごくわずかで、師の至時は、オランダから入った西洋の天文書の数値と一致したことを喜んだという。一方で、東西の位置を決める経度は、正確な時計が無い当時は測るのが難しかった。測線を積み重ねて東西の位置を出したため、九州や北海道などでは地図の形が少しずつずれている。

伊能図の写しは、やがて国の外へ出た。1828年、帰国しようとしたオランダ商館の医師シーボルトの荷物から、景保が渡した日本地図の写しが見つかった。持ち出しは国禁であり、景保は捕らえられて翌年獄中で死んだ。シーボルトは国外追放となったが、地図の写しは結局ヨーロッパに伝わり、日本の地図のもとになった。幕末、日本沿岸の測量に来たイギリスの艦船が、伊能図の写しを見てその正確さに驚き、測量を簡略にしたという話も伝えられている。
幕府に納められた正本は、1873年の皇居の火災で焼けた。伊能家に残された控えも、1923年の関東大震災で失われた。いま残るのは、各地に伝わった写しである。2001年には、アメリカ議会図書館で大図207枚の写しが見つかり、話題になった。佐原の伊能忠敬記念館には、忠敬が使った測量の道具や地図、日記などが伝わり、2010年に2345点が国宝に指定された。

忠敬が知りたかったのは、地球の大きさだった。日本の正確な形は、その問いを追う中で生まれた副産物だったとも言える。隠居してから学問を始め、歩いて国を測った人として、忠敬はいまも人気がある。北の海岸線の空白を埋めたのは、忠敬の測量に関わった間宮林蔵で、彼の測った蝦夷地の北の地も、伊能図に取り込まれた。