クリミア戦争

概要
聖地の管理権でロシアとフランスが争い、ロシアがオスマンに攻め、イギリスとフランスがオスマンについた。セヴァストポリ包囲、349日。バラクラヴァの軽騎兵の突撃。電信で新聞が戦争を伝え、写真が撮られた最初の戦争。ナイチンゲールがスクタリの病院で死亡率を42%から2%にした。死者は両方で75万人、ほとんどが病気。ロシアは負けて、農奴解放へ。ウィーン体制が終わった。
場所
44.61°N 33.52°E · クリミア半島(帰属について国際的な承認が割れている)
関わった人(2)
フローレンス・ナイチンゲールAD1820年5月12日–AD1910年8月13日 · 病院でアレクサンドル2世AD1818年4月29日–AD1881年3月13日 · 負けを継いだ本文
ナポレオン戦争のあと、ヨーロッパはウィーン会議で取り決めた大国どうしの協調のもとで、40年近く大きな戦争をせずにきた。そのなかで、ロシアの皇帝ニコライ1世は、革命を抑え込む「ヨーロッパの憲兵」を自任していた。ロシアの目は南に向いていた。衰えたオスマン帝国の領内には多くの正教徒が暮らし、黒海から地中海へ抜ける海峡は、ロシアの艦隊にとって出口だった。ニコライはイギリスの大使に、オスマン帝国をヨーロッパの病人と呼び、その遺産の分け方を話し合おうと持ちかけたと伝えられる。
きっかけは、聖地エルサレムとベツレヘムの教会の管理をめぐる争いだった。カトリックの修道士とギリシア正教の修道士が、どちらが教会の鍵を持ち、どこで礼拝するかを争い、それぞれの背後にはフランスとロシアがいた。フランスの皇帝ナポレオン3世は、国内のカトリック勢力の支持を得るためにオスマン帝国に圧力をかけ、1852年、カトリック側に有利な決定を引き出した。ニコライは怒り、オスマン帝国の領内のすべての正教徒をロシアが保護する権利を認めよと迫った。オスマン帝国が拒むと、1853年7月、ロシア軍はドナウ川沿いのオスマン帝国の属国、モルダヴィアとワラキアに入った。10月、オスマン帝国はロシアに宣戦した。

11月、黒海の南岸のシノープの港で、ロシアの艦隊がオスマン帝国の艦隊を攻撃し、ほぼ全滅させた。破裂する砲弾が木造の軍艦を次々に燃え上がらせた。イギリスの世論は、これを「シノープの虐殺」と呼んで沸き立った。ロシアが地中海やインドへの道に出てくることを恐れていたイギリスと、栄光を求めるナポレオン3世のフランスは、1854年3月、オスマン帝国の側に立ってロシアに宣戦した。翌年には、イタリアの統一をもくろむサルデーニャの首相カヴールが、英仏の歓心を買うために兵を送って加わった。かつてロシアに革命の鎮圧を助けてもらったオーストリアは、中立を保ちながらロシアに圧力をかけ、ニコライを失望させた。
ロシア軍がドナウから引き上げたあと、英仏は戦いの的を、黒海のロシアの艦隊の根拠地、クリミア半島のセヴァストポリに定めた。1854年9月14日、英仏とオスマン帝国の軍6万ほどが、半島の西岸のエフパトリアの近くに上陸した。9月20日、アルマ川でロシア軍を破ったが、すぐに町を攻めずに南へ回り込んだため、ロシア側に守りを固める時間を与えた。技師のトトレーベンは、土を盛った堡塁と塹壕をすばやく町のまわりに築き、港の軍艦を沈めて入口をふさぎ、その大砲と水兵を陸の守りに回した。10月、連合軍は町を包囲した。包囲は349日に及ぶ。

10月25日、連合軍の補給の港バラクラヴァの近くで、ロシア軍が攻めかかった。この日、命令の伝え方の行き違いから、イギリスの軽騎兵旅団の670騎ほどが、三方からロシアの大砲に狙われた谷を、正面の砲列めがけて突撃した。騎兵たちは砲火のなかを駆け抜けて大砲にたどり着いたが、引き返すまでに、100人あまりが死に、多くの者が傷つき、馬の多くを失った。詩人テニスンは、誰かが誤ったのだと知りながら、問い返さずに死の谷へ進んだ騎兵たちをたたえる詩を書いた。フランスの将軍は、見事だが、これは戦争ではない、と言ったと伝えられる。
本当の敵は冬だった。11月の嵐で、食糧や冬の衣服を積んだ補給船が沈んだ。兵士たちは、山の上の野営地でぼろぼろのテントに寝て、ぬかるみと寒さのなかで凍え、コレラや赤痢、壊血病に倒れていった。港には物資が積み上がっているのに、運ぶ道も馬も無く、前線に届かなかった。この戦争で死んだ兵士の大部分は、戦闘ではなく病で死んだ。

この惨状は、本国にすぐ伝わった。『タイムズ』紙の記者ウィリアム・ラッセルは、戦場から司令部の無能と兵士の苦しみを書き送り、読者は怒った。1855年には、黒海の海底に電信のケーブルが敷かれ、戦場の知らせが数日で、ときには数時間でロンドンやパリに届くようになった(モールスの電信)。写真家ロジャー・フェントンは大きなカメラを馬車に積んで戦場を撮影した。戦場の様子が新聞と写真で本国の市民に届いた、最初の戦争の一つである。1855年1月、イギリスの内閣は戦争の失敗の責任を問われて倒れた。
1854年11月、フローレンス・ナイチンゲールは看護婦たちを連れて、イスタンブールの対岸のスクタリにあるイギリス軍の病院に着いた(スクタリの野戦病院)。病院は不潔で、下水があふれ、傷病兵は感染症で次々に死んでいた。彼女は清潔と食事と洗濯の仕組みを整え、翌年には本国から送られた衛生の委員会が下水と換気を改めた。死亡率は大きく下がった。夜に灯りを持って病室を見回る彼女は「ランプの貴婦人」と呼ばれた。戦後、彼女は統計を使って、兵士の死の多くが防げるものだったことを示し、軍の病院の改革を訴えた。

包囲の町の中では、若いロシアの砲兵将校が、のちに『セヴァストーポリ物語』として知られる短編を書いていた。のちの文豪レフ・トルストイである。1855年3月、ニコライ1世が肺炎で亡くなり、息子のアレクサンドル2世が後を継いだ。9月8日、フランス軍が町の南の要のマラコフ堡塁を奪うと、ロシア軍は町の南側を焼いて北側へ退いた。
1856年3月、パリで講和の条約が結ばれた。黒海は中立とされ、ロシアは黒海に軍艦と軍港を持てなくなった。ドナウ川の航行は自由になり、オスマン帝国の独立と領土の保全が約束された。この戦争の死者は、すべての国を合わせて数十万人にのぼり、ロシアだけで数十万の兵を失ったとされる。推計には大きな幅があるが、その多くが病による死だった。

ロシアは、イギリスやフランスに比べて自国がどれほど遅れているかを思い知らされた。鉄道が無く、兵や物資を戦場に運べなかった。兵士の多くは農奴だった。新しい皇帝アレクサンドル2世は改革に踏み出し、1861年、農奴を解放した(農奴解放令)。ヨーロッパの大国どうしの協調は壊れ、ロシアとオーストリアは仲違いした。その隙間に、サルデーニャによるイタリアの統一と、プロイセンによるドイツの統一が進んでいく。1859年のイタリアの戦争の戦場で負傷兵の惨状を見たスイス人デュナンは、のちに赤十字を作った(『ソルフェリーノの思い出』)。クリミアは2014年、再び国際的な争いの舞台になっている(クリミアの編入)。