できごと

デ・レ・メタリカ

De re metallica
AD1556年
重要度 4
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概要

ゲオルギウス・アグリコラは、ザクセンの鉱山町の医師である。坑夫を診ながら、彼らの仕事を二十年かけて書き取った。鉱脈の探し方、坑道の支保、排水の水車とポンプ、換気の送風機、鉱石の粉砕と精錬。二百九十点を超える木版の図が付く。坑夫の肺の病についても書いている。ラテン語で書かれ、二百年近く現場の標準になった。1912年、後の大統領ハーバート・フーヴァーとその妻ルウが、鉱山技師としての知識で英訳した。

場所

ケムニッツ
50.83°N 12.92°E · ドイツ・ザクセン州

関わった人(1)

ゲオルギウス・アグリコラAD1494年3月24日–AD1555年11月21日 · 著者

本文

『デ・レ・メタリカ』(金属について)の著者ゲオルギウス・アグリコラ(1494〜1555年)の本名は、ゲオルク・バウアーという。バウアーはドイツ語で農民を意味し、アグリコラはそのラテン語訳である。名前をラテン語に置き換えるのは、当時の人文主義者のならわしだった。ザクセンのグラウハウで織物を染める職人の家に生まれ、ライプツィヒ大学で古典とギリシア語を学んだ後、イタリアのボローニャやパドヴァで医学を修めた。ヴェネツィアでは、名高い印刷所で古代ギリシアの医学者ガレノスの著作の校訂にも関わっている。

1527年、アグリコラはボヘミアの銀山の町ヨアヒムスタール(いまのチェコのヤーヒモフ)で、町の医師になった。十六世紀の初めに大きな銀の鉱脈が見つかり、急に人が集まってできた新しい町で、ヨーロッパでも指折りの銀の産地だった。この町で鋳造された銀貨はヨアヒムスターラー、略してターラーと呼ばれ、それがのちにドルという通貨の名の語源になった。

アグリコラ『デ・レ・メタリカ』、1556年の表紙
アグリコラ『デ・レ・メタリカ』、1556年の表紙Wikimedia Commons Georgius Agricola · Public domain

医師としてのアグリコラは、坑夫たちを診た。当時の医学では鉱物も薬の材料だったから、鉱物を知るために坑内にも降りるようになった。それから二十年あまり、彼は坑道に入り、坑夫や精錬の職人と話し、道具や機械を観察して書き留めた。自分の目で見たこと、信頼できる人から聞いたこと以外は書かなかった、という趣旨のことを、彼は記している。古代のプリニウスやアリストテレスの書物を引いて論じるのが学問だった時代に、現場を見て書いたのである。彼はのちにザクセンのケムニッツに移り、そこで医師を務めながら、鉱物や地質についての著作を次々に発表した。

『デ・レ・メタリカ』はラテン語で書かれた十二巻の大著で、アグリコラの死の翌年、1556年にバーゼルで刊行された。何よりの特色は、二百九十点を超える木版の挿絵である。文章だけでは、機械の仕組みは伝わらない。アグリコラは画家を雇って図を描かせ、それを木版に彫らせた。図がそろうまで出版を待ったことが、死後の刊行になった理由の一つとされる。

鉱石を引き上げる水力式巻き上げ機
鉱石を引き上げる水力式巻き上げ機Wikimedia Commons Georg Agricola · Public domain

第一巻で、アグリコラはまず鉱業への批判に答えている。鉱山は森を切り倒し、川を汚し、鳥や獣を追い払い、人を貪欲にし、坑夫を死なせる、という批判である。彼はそれを丁寧に紹介したうえで、金属なしには道具も農具も作れないと反論した。環境と開発をめぐる議論は、十六世紀にすでに交わされていたのである。

続く巻では、鉱脈の探し方が説かれる。当時、地中の鉱脈を探すのに二股の木の枝を手に持って歩く占い棒が広く使われていたが、アグリコラはその効き目に疑いの目を向け、賢い鉱山師は地表の兆しや石の様子から鉱脈を探すと書いた。鉱区の測量と鉱山の法、坑道の掘り方と、崩れないように木で支える方法、岩を火で焼いてから水をかけて割る方法なども詳しく記されている。

探査の様子を描いた本書中の木版画
探査の様子を描いた本書中の木版画Wikimedia Commons Georg Agricola · Public domain

この本でとりわけ詳しいのが、鉱山の機械である。深く掘れば掘るほど地下水が湧き出し、それを汲み上げられなくなったところで鉱山は終わる。アグリコラは、鎖につないだ桶で水を汲み上げる装置、何段にも重ねた吸い上げのポンプ、巨大な水車で動く揚水の仕掛けを、図とともに示した。動力は水車と馬と人である。坑内に新鮮な空気を送る換気の工夫も描かれている。大きなふいごや、風を受けて坑内へ送り込む仕掛けがなければ、坑夫は息ができずに倒れる。鉱石を運ぶ箱車が木の軌道の上を走る図もあり、のちの鉄道の祖先の一つとして紹介されることも多い。後半の巻では、鉱石の品位を確かめる試金、鉱石の粉砕と洗鉱、精錬の炉、金と銀の分け方、さらに塩や明礬、硫黄、ガラスの作り方までが扱われている。

アグリコラは医師として、坑夫の病にも目を向けた。坑内の埃が肺に入って呼吸を蝕むこと、カルパチア山地のある鉱山では、夫を次々に亡くして七人の夫を持った女がいると伝えられていることを書き留めている。いまでいう珪肺のような病である。原因の仕組みは分からなかったが、彼はそれを埃と結びつけていた。同じ時代のスイスの医師パラケルススも、坑夫の病についての著作を残している。

『デ・レ・メタリカ』に描かれた鉱車。鉄の案内ピンが2枚の木の板の間の溝に収まる。鉄道は鉱車から発展した
『デ・レ・メタリカ』に描かれた鉱車。鉄の案内ピンが2枚の木の板の間の溝に収まる。鉄道は鉱車から発展したWikimedia Commons en:Georg Agricola · Public domain

『デ・レ・メタリカ』は、翌年にはドイツ語に、その後イタリア語にも訳され、二百年近くにわたって鉱業の標準の書物であり続けた。中南米の銀山へ渡ったヨーロッパの技術者たちも、この本の知識を携えていたといわれる(ポトシ銀山の開発)。

1912年、この本の英訳がロンドンで出版された。訳したのは、アメリカの鉱山技師ハーバート・フーヴァーと、妻のルー・ヘンリー・フーヴァーである。二人はスタンフォード大学で地質学を学んで知り合い、ルーは同大学で地質学の学位を取った最初期の女性の一人で、ラテン語にも通じていた。フーヴァーはオーストラリアや中国の鉱山で働いて財を成した世界的な技師で、のちに第三十一代のアメリカ大統領(1929〜1933年)になる。アグリコラのラテン語は古典のラテン語ではなく、ドイツの坑夫たちの現場の言葉に合わせて彼自身が作った言葉を多く含んでいた。それを訳すには、鉱山の実務を知っていなければならない。二人は五年をかけて訳し、詳しい注を付けた。その注は、それ自体が鉱業の歴史の研究として評価され、この英訳はいまも標準の訳とされている。

1557年刊ドイツ語版『デ・レ・メタリカ』第6巻にある地下チェーンポンプの手彩色木版画
1557年刊ドイツ語版『デ・レ・メタリカ』第6巻にある地下チェーンポンプの手彩色木版画Wikimedia Commons Public domain

アグリコラ自身は、宗教改革がザクセンに広がった後もカトリックの信仰を守り続けた。それでもケムニッツの市長を四度務めるほど、町の人々の信頼を得ていた。だが1555年に彼が亡くなると、プロテスタントの聖職者たちは市内の教会に葬ることを拒んだ。遺体は数十キロ離れたツァイツへ運ばれ、そこの大聖堂に葬られた。鉱山の知識を世に残した人は、自分の町に眠る場所を得られなかった。

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