パスカルの計算機
概要
19歳のパスカルが、徴税官の父の帳簿の計算を助けるために作った。歯車を回して数を入れ、桁上がりは重りの落下で次の桁へ伝わる。フランスの通貨が12進と20進の混在だったため、桁ごとに歯数が違う。50台ほど作られ、9台が現存する。高価で壊れやすく、実用にはならなかった。30年後、ライプニッツが段付き歯車で掛け算のできる機械を作った。「優れた人間が、機械にもできる計算に時間を奪われるのは、まったく不当である」。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ブレーズ・パスカルAD1623年6月19日–AD1662年8月19日 · 作った本文
1639年、のちの数学者・思想家ブレーズ・パスカル(1623〜1662年)は十六歳だった。その年、父のエティエンヌが、ノルマンディー地方の中心の町ルーアンで、税の割り当てと取り立てを監督する役に任じられた。父はかつてパリで、政府が公債の利払いを減らそうとしたことに抗議し、宰相リシュリューににらまれて身を隠したことがあった。その後許されて、この地方の職を得たのである。
税の仕事には、膨大な計算がついて回る。しかも、当時のフランスのお金の単位は、計算に向いていなかった。1リーヴルは20スー、1スーは12ドゥニエ。十ずつで繰り上がる十進法ではなく、二十と十二で繰り上がる単位が混ざっている。父は毎晩遅くまで、帳簿の数字と格闘していた。

1642年、十九歳のブレーズは、父の計算を助けるための機械を作り始めた。数年をかけて試作を重ね、1645年に完成させた機械は、のちに「パスカリーヌ」と呼ばれるようになる。
機械は、真鍮でできた細長い箱の形をしていた。前面には、数を入れるための輪の形の目盛り盤が桁の数だけ並ぶ。輪には穴が開いていて、そこに先のとがった棒を差し込み、止め金のところまで回すと、その数が機械に入る。答えは、箱の上の小さな窓に数字で現れる。中では、それぞれの桁に歯車があって、目盛り盤を回すと、その桁の歯車が回り、窓の数字が進む。足し算は、数を次々に入れていくだけでよい。引き算は、窓の上の帯をずらして、九から引いた数を表示させる工夫によって、足し算と同じ操作で行えるようにした。

いちばん難しかったのは、桁の繰り上がりである。ある桁が9から0に変わるとき、隣の桁を一つ進めなければならない。歯車どうしを直接かみ合わせて隣を回す仕掛けにすると、999999に1を足すような場合に、すべての桁を一度に回すことになる。必要な力が大きくなりすぎて、歯車が壊れてしまう。
パスカルが考えた解決はこうである。各桁に、小さな重りの付いた腕を付けておく。桁の歯車が回るにつれて、腕は少しずつ持ち上げられる。そして桁が9から0に移る瞬間、腕が外れて落ち、その落ちる力で隣の桁の歯車を一つだけ押し進める。力は一度にではなく、一桁ずつ順番に、重りの落ちる力で伝えられていく。人の手の力ではなく、重力を借りて繰り上がりを運ぶ仕組みだった。
お金の計算のための機械なので、桁ごとに歯車の歯の数が違っていた。ドゥニエの桁は十二で、スーの桁は二十で繰り上がり、リーヴルより上の桁は十で繰り上がる。のちには、すべての桁が十進の機械や、長さの単位を計算するための測量用の機械も作られた。
パスカルは、自分の手で機械を作ったわけではない。ルーアンの職人たちに作らせた。だが職人たちは、設計の考え方を理解しないまま、自分なりの「改良」を加えてしまう。パスカルは工房に通って細かく指示を出さなければならなかった。彼は後に、職人たちが原理を分からずに作ろうとしたために失敗が重なった、と不満を書いている。

機械は、生涯に五十台ほど作られたとされ、いまも九台ほどが残っている。1649年、パスカルは国王から、この種の計算機を作り売る独占の権利を与えられた。1652年には、学問を好んだスウェーデンのクリスティーナ女王にも、手紙を添えて一台を贈っている。
だが、機械は売れなかった。熟練の職人の手作りなので、ひどく高価だった。精密な歯車は、運ぶときの揺れや衝撃ですぐに狂い、直せるのはごく限られた職人だけだった。掛け算や割り算は、足し算や引き算を何度も繰り返して行うしかない。慣れた計算係が紙とペンで計算するほうが、速いことも多かった。パスカリーヌは、日々の道具としてではなく、貴族や学者の館に飾られる驚異の品として扱われた。

それでも、この機械は、人の頭の中の作業である計算を、歯車の動きに置き換えられることを示した。三十年近くたった1672年、パリに滞在していた二十六歳のゴットフリート・ライプニッツは、パスカルの機械を知り、それに満足しなかった。掛け算ができないからである。翌年、彼は、長さの違う歯を円柱の側面に階段のように並べた「段付き歯車」を考え出した。円柱にかみ合う小さな歯車の位置をずらすと、一回転で進む歯の数が0から9まで変わる。これを使えば、桁をずらしながら同じ数を繰り返し足すことで、掛け算を機械の動きとして行える。ライプニッツの機械は、繰り上がりの仕組みが完全ではなく、思うようには動かなかった。だが段付き歯車の考えは、十九世紀にフランスで商品として売れた初めての計算機に受け継がれ、二十世紀の手回しの計算機まで使われ続けた。
ライプニッツは、計算機についてこう書いている。優れた人々が、計算という奴隷のような労働に時間を奪われるのは、ふさわしくない。機械を使えば、それは誰にでも任せられるのだから、と。のちにライプニッツは、0と1だけで数を表す二進法の体系も書き残している(ライプニッツの二進法)。

パスカル自身は、計算機を作り終えると、別の問いへ向かっていった。イタリアで水銀の柱を使った実験が行われたことを知ると(空気の重さを量る)、義兄に頼んで、水銀を入れた管を高い山に運び上げてもらい、山の上では水銀の柱が低くなることを確かめた。空気には重さがあり、高く上るほどその押す力が弱まることを示したのである。液体の圧力についての原理、確率の考え方の基礎づけと、仕事は次々に続いた。
1654年11月23日の夜、パスカルは激しい信仰の体験をした。彼はその体験を紙に書き留め、上着の裏に縫い込んで、死ぬまで身に着けていた。それからは信仰と思索に生き、断片の形で残された考えは、死後に『パンセ』としてまとめられた。1662年、パスカルは三十九歳で亡くなった。
いま、圧力の単位に彼の名が残り、1970年にスイスで作られたコンピューターのプログラミング言語にも、パスカルの名が付けられている。歯車と重りで繰り上がりを運んだ青年の工夫は、計算を機械に任せるという、長い道のりの最初の一歩だった。