ロザリンド・フランクリン
概要
X線でDNAを撮った「51番写真」が二重らせんの決め手になった。本人に断りなく見せられたものだった。37歳で死に、ノーベル賞の対象にならなかった。
関わったできごと(2)
写真51番AD1952年5月6日 · 撮ったDNAの二重らせんAD1953年 · 撮影本文
1920年7月25日、ロンドンの裕福なユダヤ系の銀行家の家に生まれた。一族には政治家や学者が多く、家は慈善活動にも熱心だった。名門の女子校で学び、15歳の頃には科学者になると決めていた。女性が科学の道に進むことに父は乗り気でなかったが、彼女の決意は揺るがなかった。1938年、ケンブリッジ大学の女子カレッジに入り、化学を学んだ。

第二次世界大戦の間は、国の石炭利用の研究所で働いた。石炭の内部にある微細な穴の構造を調べ、なぜある石炭は熱すると気体を通しにくくなるのかを明らかにした。戦時の燃料やガスマスクの研究にも役立つ仕事で、この研究で博士号を得ている。
1947年、パリの国立の化学研究所に移った。ここで、結晶にX線を当て、跳ね返って広がる光の模様(回折像)から原子の並び方を読み解く技術を身につけた(X線の発見)。炭素を高温で熱したとき、黒鉛になるものとならないものがあることを突き止め、その仕事は炭素材料の研究の古典になった。フランス語を流暢に話し、同僚たちと議論し、山歩きを楽しんだパリの日々を、のちに彼女は人生で最も幸せな時期だったと振り返っている。
1951年、ロンドンのキングス・カレッジの研究室に招かれた。与えられた課題は、遺伝を担う物質とみられていたDNAの構造を、X線で調べることだった。だがここで、問題が起きる。同じ研究室には、すでにDNAを研究していたモーリス・ウィルキンズがいた。研究室の長は彼女に、DNAのX線研究は彼女と大学院生の担当だと手紙で伝えていたが、休暇から戻ったウィルキンズは、彼女を自分の助手だと思っていた。二人は最初からすれ違い、そのわだかまりは最後まで解けなかった。
フランクリンは、DNAの繊維の湿り気を細かく調節する装置を工夫し、DNAには乾いた状態の「A型」と、水を含んで伸びた「B型」の二つの形があることを見つけた。それまで二つが混ざって写っていたために、像がぼやけていたのである。1952年5月、彼女の指導のもとで大学院生のゴスリングが撮ったB型の回折像は、「51番写真」と呼ばれる。中央にくっきりとしたX字の模様が浮かぶこの像は、らせん構造を強く示すものだった。
その頃、ケンブリッジ大学では、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが、実験はせずに模型を組み立てることでDNAの構造を解こうとしていた。1953年1月、ウィルキンズは、訪ねてきたワトソンに51番写真を見せた。フランクリン本人の了解は得ていなかった。ワトソンは、写真を見た瞬間に口がぽかんと開き、脈が速くなった、と後に書いている。さらにクリックは、研究費を審査する委員会に彼女が提出した報告書の数値も、別の研究者を通じて手に入れていた。これも彼女の知らないことだった。
ワトソンとクリックは、その数週間後に、二本の鎖がらせん状に絡み合い、内側で塩基が対をなす二重らせんの模型を完成させた(DNAの二重らせん)。同じ頃、フランクリン自身も、実験ノートの上で、B型が二本の鎖のらせんで、リン酸の骨組みが外側にあるという結論にたどり着きつつあった。ただ、彼女は推測で模型を組む前に、データで一つ一つ確かめる研究者だった。1953年4月、科学誌『ネイチャー』に、ワトソンとクリックの論文と並んで、ウィルキンズらの論文と、フランクリンとゴスリングの論文が載った。彼女の論文は、二重らせんを裏付けるデータとして読まれることになった。
その春、フランクリンはキングス・カレッジを去り、ロンドンのバークベック・カレッジに移った。ここではウイルスの構造に取り組み、タバコモザイクウイルスが、遺伝物質のRNAをたんぱく質の殻がらせん状に包む形をしていることを明らかにした。若い研究者アーロン・クルーグらとともに研究室を率い、ポリオウイルスの研究にも手をつけた。
1956年、卵巣がんが見つかった。手術と治療を受けながら研究を続け、論文を書き続けた。1958年4月16日、37歳で亡くなった。X線を浴びる仕事との関係を指摘する声もあるが、確かめられてはいない。
1962年、DNAの構造の解明に対して、ワトソン、クリック、ウィルキンズの3人がノーベル生理学・医学賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。ノーベル賞は亡くなった人には贈られない。1982年には、彼女とともにウイルスの研究を始めたクルーグがノーベル化学賞を受けている。
1968年、ワトソンは回想録『二重らせん』を出版し、その中でフランクリンを「ロージー」と呼び、気難しく、身なりにかまわない女性として描いた。これに反発した友人たちが伝記を書き、彼女の業績と、研究の成果が本人の知らないところで使われた経緯が知られるようになった。科学の世界で女性の功績が見過ごされてきたことの象徴として、彼女の名はしばしば挙げられる。
近年は、残された書簡や記録を読み直し、彼女を単なる被害者としてではなく、二重らせんの発見に対等に貢献した研究者の一人として捉え直す研究も出ている。ヨーロッパの火星探査車には、彼女の名が付けられた。