フリードリヒ・ゼルチュルナー
概要
技師の子。十六歳で孤児となり薬剤師の見習いになった。二十歳前後、店の裏でアヘンの成分を調べ、白い結晶を取り出した。犬と自分たちで試し、強い眠りと呼吸の抑制を確かめた。1806年と1817年の論文で、植物に塩基性の有効成分が含まれるという考えを示した。当初は無視され、ゲイ=リュサックが仏語に訳して広まった。後年は薬局を経営し、痛風とうつに苦しんだ。自らモルヒネを常用していたとされる。
関わったできごと(1)
モルヒネの単離AD1804年 · 単離した本文
フリードリヒ・ヴィルヘルム・アダム・ゼルチュルナーは1783年6月19日、ドイツ北西部パーダーボルン近くのノイハウスに生まれた。父はパーダーボルン司教領の宮廷に仕える測量技師で、オーストリアの出だったとされる。1799年ごろ父が死に、16歳の少年は身寄りを失った。彼はパーダーボルンの宮廷薬局に見習いとして入った。

当時の薬局は、調剤と販売の店であると同時に、事実上の化学の実験室だった。スウェーデンのシェーレやドイツのクラプロートのように、薬局の奥から出た化学者は少なくない。見習いの仕事の合間に、ゼルチュルナーは一つの問いに取りつかれた。アヘンはなぜ効くのか。そして、なぜ効き目がこれほど安定しないのか。
当時の考えでは、アヘンはその全体が効くのであって、効く成分を一つだけ取り出すという発想はまだ弱かった。しかも植物から取れる物質は、酸性か中性だと思われていた。1803年から1805年ごろにかけて、彼は店の裏でアヘンを水に溶かして抽出し、そこにアンモニアを加えた。すると白い結晶が沈んだ。この結晶は酸に溶けて塩を作る。つまりアルカリの性質を持っている。植物の中にアルカリ性の物質がある、という当時の考えに反する結果だった(モルヒネの単離)。
彼は結晶を犬に与えた。犬は眠り、量を増やすと死んだ。やがて彼は、自分と10代の若者3人とで、それを飲んでみた。少量ずつ、時間をおいて3回。顔が赤くほてり、激しい腹痛とめまいに襲われ、意識が遠のきかけた。彼は酢を飲んで吐き、仲間にも吐かせて、ようやく事なきを得た。この物質は恐ろしい毒であり、若者たちにこれ以上試させる気にはなれない、という趣旨のことを彼は書き残している。
彼はこの物質を、ギリシア神話の夢の神モルペウスにちなんで「モルフィウム」と名づけた。のちにフランスで「モルフィン」と呼ばれ、それが世界の名になった。
1806年の最初の論文には、ほとんど反応がなかった。植物の成分はアルカリではないという当時の理論に合わず、載った雑誌も地味で、書いたのは無名の薬局の見習いだった。1817年、彼は改めて詳しい論文を出し、植物にはアルカリ性の有効成分が含まれていて、それは新しい種類の物質だ、とはっきり主張した。これがフランスの化学者ゲイ=リュサックの目にとまった。ゲイ=リュサックはこの論文をフランス語に訳して自分の雑誌に載せ、ほかの植物でも同じ探索をすべきだと促した。
それで火がついた。1817年から十数年のうちに、ストリキニーネ、キニーネ(キニーネを取り出す)、カフェイン、ニコチン、アトロピンが次々に植物から取り出された。1819年には、こうした物質を「アルカロイド」(アルカリに似たもの)と呼ぶ名もドイツで生まれた。
ゼルチュルナー自身はその後、薬局の主人として生きた。1806年ごろアインベックで薬局を開き、のちに笛吹き男の伝説で知られる町ハーメルンへ移った。研究も続け、銃の火薬の改良を試み、コレラの原因についても考察を発表した。後者には当時として先を見たところと、誤ったところが混ざっている。だが学界からは、長く顧みられなかった。
1831年、フランス学士院は彼に、人類に恩恵をもたらした仕事に贈るモンティヨン賞と賞金2000フランを与えた。彼が受けた、ほとんど唯一の大きな公の評価である。
晩年の彼は痛風とうつに苦しんだ。自らモルヒネを常用していたとも伝えられるが、確かな記録ではなく、複数の伝記がそう記しているにとどまる。1841年2月20日、彼はハーメルンで死んだ。57歳だった。
彼の仕事が変えたのは、薬の扱い方そのものだった。煎じ薬や「何滴」で量る薬草から、純粋な成分を「何ミリグラム」で量る薬へ。効き目をそろえ、量を決め、比べることができるようになった。近代の薬学の最初の一歩を、20歳前後の見習いが店の裏で踏み出したのである。
モルヒネはいまも、最も大切な痛み止めの一つとして世界保健機関の必須医薬品に挙げられている。その一方で、世界の多くの地域では規制の厳しさから、激しい痛みに苦しむ人がこれを手に入れられない。別の地域では、モルヒネの仲間の薬の出しすぎが多くの死を招いてきた。19世紀には同じアヘンをめぐってアヘン戦争も起きている。白い結晶は、取り出された日から二つの顔を持っていた。