できごと

ボーアの原子模型

Bohr model of the atom
AD1913年
重要度 5
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェーオーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国アルジェリアモロッコイタリアルーマニアアイスランドチュニジアブルガリアギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1913年コペンハーゲン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1913年の版図を描いています(25勢力)。

概要

ラザフォードの原子(中心に核、周りに電子)は、古典物理では電子が落ちて潰れるはずだった。ボーアは、電子はとびとびの軌道だけを回り、軌道を飛び移るときに光を出す、と言った。水素のスペクトルの線が全部合った。「量子跳躍」。理由は説明しなかった。1922年、ノーベル賞。コペンハーゲンの研究所に、世界の若い物理学者が集まって、量子力学を作った。

場所

コペンハーゲン
55.68°N 12.57°E · デンマーク

関わった人(1)

ニールス・ボーアAD1885年10月7日–AD1962年11月18日 · 考えた

本文

1913年、デンマークの27歳の物理学者ニールス・ボーアは、原子の中で電子がどのように存在しているかについての新しい理論を、三つの論文に分けて発表した。電子は原子核の周りの決まった軌道だけを回ることができ、軌道から軌道へと飛び移るときにだけ光を出す。この大胆な仮定によって、水素が出す光のスペクトルの線の位置が、見事に説明された。ボーアの原子模型は、量子の考え方を原子の構造に初めて持ち込み、のちの量子力学への扉を開いた。

その2年前の1911年、イギリスのマンチェスターで、ニュージーランド出身の物理学者アーネスト・ラザフォードは、薄い金箔にアルファ粒子を当てる実験の結果から、原子の中心には、原子の大きさに比べてごく小さく、重い、正の電気を帯びた核がある、と結論した。電子はその周りを回っている。太陽の周りを惑星が回るような原子の姿である。

水素・ヘリウム・リチウム・ネオンの電子エネルギー準位を示す模型図
水素・ヘリウム・リチウム・ネオンの電子エネルギー準位を示す模型図Wikimedia Commons BruceBlaus · CC BY 3.0

ところが、この原子には致命的な欠陥があった。当時の電磁気学によれば、電気を帯びた粒子が円を描いて回ると、光(電磁波)を出してエネルギーを失う。エネルギーを失った電子はらせんを描いて核に落ち込み、原子は一瞬のうちに潰れてしまうはずだった。しかし現実の原子は潰れず、安定して存在している。さらに、原子が出す光は、どんな色でも出るわけではなく、元素ごとに決まった色の線だけが現れる。古典物理学は、そのどちらも説明できなかった。

ニールス・ボーアは1885年、コペンハーゲンの学者の家に生まれた。父は生理学の教授で、弟のハラルは数学者になり、サッカーのデンマーク代表としてオリンピックで銀メダルを取ったこともある。ボーアは1911年に博士号を取ると、イギリスに渡り、ケンブリッジで電子の発見者J・J・トムソンのもとで学んだのち、1912年の春からマンチェスターのラザフォードの研究室に移った。そこで彼は、ラザフォードの原子をどう救うかという問題に取り組んだ。その年の夏にデンマークに戻り、マルグレーテと結婚した。

ボーアは、プランクの量子仮説と、光が粒のようにエネルギーの塊として振る舞うというアインシュタインの考え(アインシュタインの奇跡の年)を、原子の中に持ち込んだ。彼は三つの仮定を置いた。第一に、電子は核の周りの、ある決まった条件を満たす軌道だけを回ることができる。第二に、電子がその軌道を回っている間は、光を出さない。なぜ出さないのかについて、ボーアは説明しなかった。そういうものだと仮定したのである。第三に、電子が一つの軌道から別の軌道へ飛び移るとき、二つの軌道のエネルギーの差に等しいエネルギーを持つ光を一つ出すか、吸収する。光の振動数は、そのエネルギーの差をプランクの定数で割ったものになる。

アインシュタインの奇跡の年に関わる図版:Einstein patentoffice
アインシュタインの奇跡の年Wikimedia Commons Lucien Chavan [ 1 ] (1868 - 1942), a friend of Einstein's when he was living in Berne. · Public domain

この仮定から計算すると、水素の原子が出す光の線の位置が、驚くほど正確に導き出された。水素の光の線の位置には、1885年にスイスの高校の教師ヨハン・バルマーが見つけた、簡単な規則があることが知られていた。なぜそんな規則になるのか、30年近く誰にも分からなかった。ボーアはこの規則を同僚に教えられて、すぐにすべてが分かった、とのちに語っている。ボーアの理論では、バルマーの式に出てくる定数(リュードベリ定数)を、電子の質量と電荷、プランクの定数から計算でき、その値は実験の値とよく一致した。

それでも、ボーアの理論は奇妙だった。古典物理学の法則を部分的に使いながら、都合の悪いところでは古典物理学を捨てていた。論文を受け取ったラザフォードは、電子がある軌道から別の軌道に飛び移るとき、どこに行くかを、飛び移る前にどうやって決めるのか、と問う手紙を書いた。ボーアには答えられなかった。それでも、ボーアの理論が正しい方向を向いていることは、次々に確かめられた。1914年にはドイツのフランクとヘルツの実験が、原子がとびとびのエネルギーしか受け取らないことを示した。ドイツのゾンマーフェルトは、円い軌道を楕円の軌道に広げてボーアの理論を発展させた。

ニールス・ボーアの肖像
ニールス・ボーアWikimedia Commons The American Institute of Physics credits the photo [1] to AB Lagrelius & Westphal , which is the Swedish company used b · Public domain

ボーアの考えは、化学にも及んだ。電子が内側の軌道から順に詰まっていくと考えると、元素の性質が周期的に繰り返される周期表の仕組みが説明できた。ボーアは、まだ見つかっていなかった原子番号72の元素は、それまで考えられていた希土類ではなく、ジルコニウムに似た性質を持つはずだと予言した。1923年、コペンハーゲンの研究者たちはジルコニウムの鉱石の中からこの元素を見つけ、コペンハーゲンの古い名にちなんでハフニウムと名づけた。

1921年、コペンハーゲン大学に理論物理学研究所が開かれた。ボーアはその所長となり、デンマークのビール会社カールスバーグの財団などの援助も受けて、研究所を世界の若い物理学者が集まる場所にした。1922年、ボーアはノーベル物理学賞を受けた。研究所には、オランダのクラマース、オーストリアのパウリ、ドイツのヴェルナー・ハイゼンベルク、イギリスのディラック、ロシアのガモフやランダウらが訪れ、日本からも仁科芳雄が長く滞在した。ボーアは若い研究者と長い時間をかけて議論し、散歩しながら考えを語り合った。考えを言葉にし、相手にぶつけることで、自分の考えを固めていく人だったと伝えられる。

コペンハーゲンの地図
コペンハーゲンの地図Wikimedia Commons Public domain

1925年、ハイゼンベルクは、目に見えない電子の軌道という考えそのものを捨て、観測できる量だけで原子を記述する新しい力学を作った。翌年にはシュレーディンガーが波の方程式を示した。量子力学の誕生である。そこには、もはや電子が回る決まった軌道は存在しなかった。電子がどこにあるかは確率でしか言えない。ボーアの模型そのものは、量子力学によって乗り越えられた。それでもボーアは、量子力学の意味をめぐる議論の中心にい続け、その解釈は「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになった。アインシュタインは、確率でしか語れない物理学を最後まで受け入れず、ボーアとの論争は生涯続いた。

ボーアの原子模型は、厳密には正しくない。それでも、中心に核があり、その周りを電子が回る原子の絵は、いまも教科書の最初のページや、原子力を表すしるしとして、世界中で使われている。正しくはないが、分かりやすく、本質の一部をつかんだ絵として、ボーアの原子は100年以上生き続けている。のちに原子核が割れる仕組みが見つかったときも、それを説明する手がかりの一つはボーアの原子核の考え方だった(核分裂の発見)。

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