フランクリンの雷の実験
概要
雷が電気だと示し、避雷針を作った。神の怒りとされたものが、金属の棒で地面に流せるものになる。
場所
39.95°N -75.17°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州
関わった人(1)
ベンジャミン・フランクリンAD1706年1月17日–AD1790年4月17日 · 実験本文
18世紀の半ば、ヨーロッパでは電気が流行りの見世物になっていた。ガラスの球をこすって火花を飛ばし、手をつないだ人々に一斉に衝撃を与える。1745年ごろには、電気をためておけるガラスの瓶、ライデン瓶が発明され、より強い火花を作れるようになった。その青白い光とぱちっという音が、雷の稲妻と雷鳴にそっくりだと考える人は少なくなかった。だが、似ていることと同じであることは違う。雷が電気だと確かめた人は、まだいなかった。
フィラデルフィアの印刷業者ベンジャミン・フランクリンは、40歳になるころに電気の実験に夢中になった。暦の出版や新聞で成功し、商売の第一線から退きつつあった彼は、ロンドンから届いた実験器具で研究を重ねた。電気を一種の流体と考え、それが多すぎる状態と足りない状態をプラスとマイナスと呼ぶ。いまも使われるこの言葉は、フランクリンが広めたものだ。尖った金属の先が、電気を音も無く静かに引き寄せることにも気づいた。

1750年、フランクリンはロンドンの知人に宛てた手紙で、一つの実験を提案した。高い塔の上に番小屋を作り、その中から先の尖った鉄の棒を空へ高く突き出す。雷雲が上を通るとき、棒から火花を取り出せれば、雷雲が電気を帯びていることが分かる。この提案は本にまとめられ、ロンドンで出版されて、フランスでも訳された。
最初に成功したのは、フランクリンではなかった。1752年5月、パリの北のマルリーで、フランスの博物学者ダリバールが、フランクリンの案どおりに12メートルほどの鉄の棒を立て、雷雲が通ったときに棒から火花を取り出した。フランクリンの名は、ヨーロッパで一躍知られることになった。

その知らせが届く前に、フランクリンは別の方法を思いついていたとされる。フィラデルフィアにはまだ十分に高い塔が無かった。そこで、凧を使って空高くまで届かせることにした。絹のハンカチと杉の細い板で凧を作り、上の端に尖った針金を付ける。麻の糸の手元の端に金属の鍵を結び、自分は濡れないように小屋の中に入って、乾いた絹の紐で糸を持つ。
1752年の夏のある日、雷雲の下で凧を上げた。しばらくは何も起こらなかったが、やがて糸のけば立った繊維がぴんと逆立ち、雨で糸が濡れて電気が通りやすくなると、鍵に指を近づけたとき火花が飛んだ。鍵からライデン瓶に電気をためることもできた。後年の記述によれば、手伝ったのは息子のウィリアムだったという。

フランクリン自身は、この実験を10月に新聞で短く報告しただけで、日付も詳しい様子も書かなかった。そのため、本当に行われたのかを疑う研究者もいる。また、凧に雷が直接落ちたわけではない。雷雲の下の空気が帯びた電気を、濡れた糸がわずかに引き寄せただけだった。もし雷が落ちていたら、フランクリンは死んでいただろう。じっさい翌1753年、ロシアのサンクトペテルブルクで同じような実験をしていた物理学者リヒマンは、装置に落ちた雷に打たれて死んだ。
雷が電気だと分かると、フランクリンはすぐにそれを役立てる道を考えた。尖った鉄の棒を建物の屋根より高く立て、そこから太い針金を地面まで下ろしておく。雷は棒に落ち、建物を傷つけずに地面へ逃げる。避雷針である。フランクリンは1753年、自分の出す暦の中で、その作り方を誰にでも分かるように紹介した。
当時、雷で最も被害を受けていたのは教会だった。町でいちばん高い鐘楼には雷がよく落ち、嵐が来ると雷を追い払うために鐘を鳴らす習わしがあったため、鐘を鳴らす人が打たれて死ぬことも多かった。火薬を教会の地下に蓄えていたために、雷で大爆発が起きた例もある。避雷針は、そうした建物を守った。
一方で、反発もあった。雷は神の意志の表れであり、それをそらすのは神に逆らうことだ、という声が聖職者の一部から上がった。1755年にボストンで地震が起きたとき、避雷針が大地に電気を集めたせいだと説教した牧師もいる。それでも避雷針は、アメリカでもヨーロッパでも、しだいに広まっていった。尖った先が良いか丸い先が良いかという論争もあり、のちにアメリカが独立を目指してイギリスと対立すると、それは政治の色を帯びることさえあった。
フランクリンは、避雷針で特許を取らなかった。暖房のためのフランクリン・ストーブでも取っていない。自伝ではそのストーブについて、私たちは他人の発明から大きな恩恵を受けているのだから、自分の発明で人の役に立てる機会を喜んで差し出すべきだ、という趣旨のことを書いている。
1753年、ロンドンの王立協会(王立協会の設立)はフランクリンに、最も名誉あるメダルを贈った。植民地の印刷業者が、ヨーロッパの最先端の科学者に並んだ。その名声は、のちに独立戦争のさなか、フランスに渡って同盟と援助を取りつける外交の場で、大きな力になる。神の怒りと恐れられたものが、金属の棒一本で地面に流せるものになった。その科学者が、独立宣言に署名する一人にもなった。