『夢渓筆談』

概要
官を退いた官僚が、潤州の夢渓園で、見聞きしたことを書き留めた随筆。磁針が真北を指さないこと、活字による印刷が使われていることが、ここに初めて記録される。
場所
32.19°N 119.42°E · 中国・江蘇省鎮江市
関わった人(1)
沈括AD1031年–AD1095年 · 著者本文
沈括は北宋の官僚で、科挙に合格してから地方官、天文をつかさどる役所の長、契丹(遼(契丹))への使者と、さまざまな職を渡り歩いた。王安石の新法の時代には新法の側で働き、暦の改定や水利、塩の専売の立て直しにも関わっている。使者として遼へ行ったときは、国境の地形を自分で調べて記録し、交渉で相手の主張を退けたと伝わる。
転機は1082年に来た。西夏との戦いで、築いたばかりの永楽城が落ち、多くの兵が死んだ。その責任を問われて官を落とされ、政治の表舞台から退いた。のちに江南の潤州(いまの江蘇省鎮江)に土地を買い、若いころ夢に見た景色に似ているとして「夢渓」と名づけた園に住んだ。そこで客とも会わず、筆と硯を相手に、これまで見聞きしたことを書きつけていった。それが『夢渓筆談』である。

本は26巻で、のちに補筆談と続筆談が加わり、全部で600条あまりの断章になる。天文、暦、数学、地理、地質、医薬、音楽、書画、官制、軍事、そして宮中の故事や噂話までが並ぶ。一応は部門に分けてあるが、一つの条の長さも調子もまちまちで、思いついた順に書いたような読み心地がある。随筆であって論文ではない。その気軽さのなかに、ほかのどこにも残っていない記録が混じっている。
いちばん知られているのは磁針の記述だ。方家(術者)は磁石で針をこすって南を指させるが、針は「常にわずかに東に偏り、真南を指さない」と書いている。地磁気の偏角を述べた、はっきりした記録としては世界で最も早いものとされる。針の吊るし方も比べていて、水に浮かべる、爪の上や碗の縁にのせる、といったやり方は揺れやすく、新しい絹糸一本に蝋で付けて吊るすのがいちばんよいとする。羅針盤が実際に船で使われる記録(羅針盤が海に出る)は少しあとのことになる。

活字による印刷を伝えるのも、この本だけだ。慶暦年間(1041〜1048年)に、無位無官の畢昇が、粘土に一字ずつ字を彫って焼き固め、鉄の板の上に松脂や蝋で並べて刷る方法を考えた。よく使う字は何十個も作っておき、二枚の板を交互に使えば速く刷れた、と手順まで細かい。畢昇が死んだあと、その活字は沈括の一族の手に渡ったとも書いている。畢昇という人物のことは、この一条のほかに確かな記録がほとんど無い(畢昇の活字)。
延州(いまの陝西省延安の辺り)では、地面から湧き出る黒い油を土地の人が集めて燃やしていた。沈括はその煤で墨を作ってみて、松の煤よりよいと書き、この油を「石油」と呼んだ。この先きっと世の中で広く使われるだろう、とも書き添えている。いまの中国語や日本語の「石油」という語は、ここにさかのぼるとされる。

地面の成り立ちについての観察もある。河北へ使いに出たとき、太行山脈の崖に貝殻や丸い小石が帯のように挟まっているのを見て、ここはかつて海辺だったのだろう、いまの平野は川が運んだ泥が積もってできたのだ、と推し量った。延州では地中から竹の化石が出たことを記し、いまの延州は竹が育つ土地ではないから、昔は気候が違っていたのではないかと考えている。
光についても書いている。小さな穴を通した光が壁に像を結ぶと、像が上下逆になることを観察し、穴を挟んで像がひっくり返る理屈を、櫓を漕ぐときの支点にたとえた。虹については、太陽と反対の方向に現れ、雨粒に日の光が映ってできるものだとする同時代の人の説を紹介し、自分でも確かめたと書く。ほかにも、地形の起伏を木で作った模型で表したこと、月の満ち欠けを白い粉を塗った球で説明したことなどが出てくる。
もちろん、すべてが正しいわけではない。怪異譚もあれば、聞いたままの話もある。それでも沈括は、見たものを見たとおりに書き、理由を考えようとする癖を持っていた。20世紀になって中国の科学史を研究したイギリスのジョゼフ・ニーダムは、沈括を中国の科学史で最も興味深い人物の一人に数えた。役人が退いたあとの楽しみとして書いた雑記が、千年後に宋の技術を知るための一次史料になっている。