概要
ロンドンのソーホーで、3日で127人が死んだ。麻酔医ジョン・スノウは、死者の家を地図に点で打った。ブロード・ストリートの井戸の周りに集まっていた。離れた場所の死者は、その井戸の水を好んで運ばせていた。近くの救貧院とビール工場(自前の井戸)では死者が出なかった。9月8日、彼はポンプの取っ手を外させた。「悪い空気」でなく水だという説は、10年後に認められた。疫学が始まった。
場所
51.51°N -0.14°E · イギリス・ロンドン
関わった人(1)
ジョン・スノウAD1813年3月15日–AD1858年6月16日 · 外させた本文
コレラ。1817年にベンガルから世界へ広がり始めた。イギリスは1831年、1848年、1854年、1866年に流行した。当時の医学の主流は「瘴気(ミアズマ)説」。腐った物から出る「悪い空気」が病気を起こす。ロンドンの悪臭は本物だった(テムズは下水で、1858年には議会が「大悪臭」で閉会した)。
ジョン・スノウ。ヨークの労働者の子。ニューカッスルで徒弟をしていた1831年、炭鉱町のコレラを見た。ロンドンで麻酔の第一人者になり(エーテルとクロロホルムの量を測る器具を作った)、同時にコレラを考え続けた。1849年、『コレラの伝播様式について』(小冊子。売れたのは56部)。「コレラは腸に来る。肺でなく。だから、吸うのでなく、飲んでいるのだ。患者の排泄物が、水に入って、次の人の口に入る」。細菌は知られていなかった(コッホのコレラ菌は1884年)。
1854年8月31日から、ソーホーのゴールデン・スクエア地区で爆発した。3日で127人、9月10日までに500人以上が死んだ。人口の1割以上が死んだ通りもあった。
スノウは、地区に住んでいた。9月3日から、死亡登録所の記録を持って、家を一軒ずつ回った。死者の家を地図に、棒(バー)で積み上げて記した。中心はブロード・ストリートの井戸だった。
例外を確かめた。(1)近くのライオン醸造所の70人の労働者に死者がいない。自前の井戸があり、労働者はビールを飲んでいた。(2)ポランド・ストリートの救貧院、535人中5人。中に井戸があった。(3)ハムステッド(離れた場所)の未亡人が死んだ。彼女はブロード・ストリートの水が好きで、毎日、荷馬車で運ばせていた。姪も飲んで、死んだ。
9月7日の夜、彼はセント・ジェームズ教区の理事会に出て、証拠を示した。理事会は納得しなかったが、翌9月8日、ポンプの取っ手を外した。
流行は、その前から下火になっていた(人が逃げていた)。取っ手を外したことが流行を止めた、というのは後の単純化。しかし、地図と、例外の検証と、「原因はこれだ」という特定は、それまで誰もやっていなかった。
原因。井戸から1メートルほどの所に、汚水溜めがあった。40番地の赤ん坊が8月28日にコレラで死に、母親がおむつを洗った水を、その汚水溜めに捨てていた。煉瓦が朽ちて、漏れていた。牧師ヘンリー・ホワイトヘッド(初めスノウに反対していた)が、聞き取りで突き止めた。
スノウは1858年、45歳で脳卒中で死んだ。『ランセット』の追悼記事は短く、コレラの仕事に触れなかった(1866年、政府が水の説を認めた。1936年、『ランセット』は「我々は彼を過小評価した」と訂正の記事を出した)。
1866年、イースト・ロンドンの流行で、水道会社の給水域と死者が一致した。1884年、コッホがコレラ菌を見つけた。
いま、ブロード・ストリート(ブロードウィック・ストリート)に、取っ手のない給水ポンプのレプリカが立ち、隣のパブは「ジョン・スノウ」という名前で、酒を飲まなかった彼の名を掲げている。