できごと

ジョン・スノウのコレラ地図

1854 Broad Street cholera outbreak
AD1854年9月8日
重要度 5
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1854年9月8日ソーホー(ブロード・ストリート)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1854年9月8日の版図を描いています(22勢力)。

概要

ロンドンのソーホーで、3日で127人が死んだ。麻酔医ジョン・スノウは、死者の家を地図に点で打った。ブロード・ストリートの井戸の周りに集まっていた。離れた場所の死者は、その井戸の水を好んで運ばせていた。近くの救貧院とビール工場(自前の井戸)では死者が出なかった。9月8日、彼はポンプの取っ手を外させた。「悪い空気」でなく水だという説は、10年後に認められた。疫学が始まった。

場所

ソーホー(ブロード・ストリート)
51.51°N -0.14°E · イギリス・ロンドン

関わった人(1)

ジョン・スノウAD1813年3月15日–AD1858年6月16日 · 外させた

本文

コレラは、19世紀に世界を襲った新しい疫病だった。1817年にインドのベンガルから広がり始め、交易と軍隊の移動に乗って、アジア、ロシア、ヨーロッパ、アメリカへと何度も波のように押し寄せた。日本にも1822年に入り、1858年には江戸で大流行した(安政のコレラ)。激しい下痢と嘔吐で体の水分が失われ、元気だった人が一日のうちに死ぬこともある。イギリスでは1831年から32年、1848年から49年、1853年から54年と、繰り返し大流行した。

当時の医学で有力だったのは、瘴気(ミアズマ)の説である。腐ったものや汚れた土地から立ちのぼる悪い空気が、病気を起こす。ロンドンの悪臭はひどかった。各家の汚水溜めはあふれ、下水はそのままテムズ川に流れ込み、その同じ川から多くの水道会社が飲み水を汲んでいた。悪臭の中で人が死んでいくのだから、臭いを病気の原因と考えるのは自然なことだった。

風刺画『コレラ王の宮廷』(『パンチ』誌、1852年)
風刺画『コレラ王の宮廷』(『パンチ』誌、1852年)Wikimedia Commons Public domain

ジョン・スノウは1813年、ヨークの労働者の家に生まれた。北イングランドのニューカッスルで外科医の徒弟をしていた18歳のとき、炭鉱の町でコレラの流行を目の当たりにする。のちにロンドンで医師となり、新しく現れた麻酔の研究で第一人者になった。エーテルやクロロホルムの量を正確に測って吸わせる器具を工夫し、1853年にはヴィクトリア女王のお産にクロロホルムを用いている(女王の無痛分娩)。同時に彼は、コレラのことを考え続けていた。

スノウの考えはこうだった。コレラはまず腸を襲い、肺ではない。だとすれば、病気は空気を吸うことで移るのではなく、何かを口から飲み込むことで移るはずだ。患者の排泄物に含まれる何かが、飲み水に混じり、次の人の口に入る。1849年、彼はこの説を小冊子にまとめて出したが、ほとんど相手にされなかった。病原菌という考えは、まだ無かった。

ジョン・スノウによる1854年ロンドン・コレラ流行の地図。汚染ポンプの位置を示す
ジョン・スノウによる1854年ロンドン・コレラ流行の地図。汚染ポンプの位置を示すWikimedia Commons John Snow · Public domain

1854年8月の末、スノウが住んでいた地区に近いソーホーで、激しい流行が起きた。数日のうちに数百人が死んだ。スノウは死亡の登録簿を手に入れ、死者の出た家を一軒ずつ訪ね歩いて、どこの水を飲んでいたかを聞き取った。そして、死者の数を、住所ごとに小さな黒い棒を積み重ねて地図に記した。棒の山は、ブロード・ストリートの共同の井戸の手押しポンプのまわりに、くっきりと集まっていた。

スノウの仕事の本領は、例外を一つずつ確かめたところにある。井戸のすぐ近くの醸造所では、70人ほどの働き手から一人も死者が出なかった。彼らは醸造所の中の井戸の水と、ふるまわれるビールを飲んでいて、ブロード・ストリートの水を飲んでいなかった。数百人が暮らす近くの救貧院でも、死者はごくわずかだった。ここにも自前の井戸があった。逆に、遠く離れたハムステッドで死んだ女性がいた。かつてこの界隈に住んでいた彼女は、ブロード・ストリートの水の味を好み、わざわざ荷車で運ばせて飲んでいた。それを一緒に飲んだ姪も、別の町で死んでいた。地図の上の点の集まりと、例外の一つひとつが、同じ一つの井戸を指していた。

ヘンリー・ホワイトヘッド牧師の肖像
ヘンリー・ホワイトヘッド牧師の肖像Wikimedia Commons Scott and Sons · Public domain

9月7日の夜、スノウは地区の教区の委員会に出て、証拠を示した。委員たちは半信半疑だったが、翌9月8日、ポンプの取っ手を外すことを決めた。流行はやがて収まった。ただ、流行はその前から下火になっていた。多くの住民がすでに町から逃げ出していたからである。取っ手を外したことが流行を止めた、という話は、のちに分かりやすく語られた面がある。後に、地元の牧師ヘンリー・ホワイトヘッドが聞き取りを重ね、井戸のすぐそばの家で亡くなった赤ん坊のおむつを洗った水が、傷んだ汚水溜めから井戸へ漏れていたらしいことを突き止めた。初めはスノウの説に反対していた牧師が、自分の調べで説の正しさを確かめたのである。

同じ頃、スノウはもう一つの調べを進めていた。南ロンドンでは、二つの水道会社が同じ町の家々に、通りによって入り混じって水を売っていた。一社は下水の流れ込むテムズ川の下流から、もう一社は上流のきれいな場所から水を汲んでいた。住んでいる場所も暮らし向きも同じような人々が、どちらの会社の水を飲んでいたかだけで分かれている。スノウが家々を調べると、下流の水を飲んでいた家のコレラの死亡率は、上流の水の家の何倍にも上っていた。偶然の条件を利用して原因を比べるこの方法は、のちの疫学の調べ方の手本とされる。1855年、スノウは地図とこの調べを加えた改訂版を出した。

ジョン・スノウの肖像
ジョン・スノウWikimedia Commons Public domain

スノウは1858年、45歳で脳卒中のために亡くなった。医学雑誌に載った追悼記事は短く、コレラの研究には触れていなかった。同じ年の夏、テムズ川の悪臭があまりにひどく、議会の審議にも差し支えるほどになると、ロンドンには大規模な下水道が造られることになる(ロンドンの下水道)。ただし、その目的は臭いを消すことだった。1866年、東ロンドンの流行で、特定の水道会社の給水と死者がはっきり重なると、水が病気を運ぶという考えはようやく受け入れられ始めた。1884年、ドイツのロベルト・コッホがコレラ菌を見つけ、スノウの推理に病原体の名が与えられた。

スノウの地図は、データを地図の上に置いて原因を探る方法の古典として、いまも疫学や統計の教科書に載っている。病気の広がりを地図で追い、例外を確かめ、比べる相手を探して、原因に迫る。新型の感染症が現れるたびに使われる考え方の、出発点の一つである。ソーホーのブロードウィック・ストリート(かつてのブロード・ストリート)には、取っ手の無いポンプの複製が立ち、そばのパブは、酒を飲まなかった彼の名を掲げている。

出典(1)

ウィリアム・H・マクニール(佐々木昭夫 訳) 『疫病と世界史』第6章 医学と医療組織の役割

同じ時代のできごと

ザンジバルの丁子と奴隷市場AD1840年(オマーンのスルタンが遷都)平均人AD1835年モリオリの征服AD1835年ガイドブックAD1830年代マーシュ試験AD1836年グレート・トレックAD1836年エドモンソン式乗車券AD1837年バベッジの階差機関と解析機関AD1837年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1854年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →