人物

ヒッポクラテス

Hippocrates
BC460年頃 – BC370年頃(享年90・推定)
ギリシア諸ポリス重要度 4

概要

病を神罰でなく自然の現象として扱った。医の倫理を説いた誓いに名が残る。

所属

ギリシア諸ポリス

関わったできごと(1)

ヒポクラテス集典と医の誓いBC400年頃 · 名を残した

本文

紀元前460年頃、エーゲ海の南東、小アジアの沿岸に近いコス島に生まれた。家は、医術の神アスクレピオスの子孫を名乗る医者の一族で、父も医者だったとされる。医術は家の中で、父から子へ、師から弟子へ受け継がれる技だった。

ルーベンス画のヒポクラテス
ルーベンス画のヒポクラテスWikimedia Commons Paulus Pontius / After Peter Paul Rubens · Public domain

同じ時代の証言は多くない。少し後のプラトンが対話篇の中で、コスのヒッポクラテスを、金を払えば医術を教えてくれる名高い医者として、また、体の一部を治すには体全体の性質を知らねばならないと考えた人として、名を挙げている。アリストテレスも「偉大なヒッポクラテス」と呼んだ。生前すでにギリシア世界で広く知られた医者だったことは確かである。各地を旅して患者を診て、晩年はギリシア北部のテッサリアで暮らし、ラリサで亡くなったと伝えられる。百歳を超えて生きたという話まであるが、それは後世の伝説で、没年は紀元前370年頃とされる。

ペルシア王から高い報酬で招かれたが、ギリシアの敵には仕えないと断った、アテナイで疫病が流行したとき町じゅうで火を焚かせて救った、といった逸話も伝わる(アテナイの疫病)。だが、これらは後の時代に作られた手紙や伝記に基づくもので、史実とは考えられていない。

アテナイの疫病に関わる図版:Plague in an Ancient City LACMA AC1997.10.1 (1 of 2)
アテナイの疫病Wikimedia Commons Michiel Sweerts · Public domain

その名で伝わる「ヒッポクラテス集典」は、60から70ほどの医学書の集まりである(ヒポクラテス集典と医の誓い)。文体も考え方もまちまちで、書かれた時期も紀元前5世紀から4世紀、一部はさらに後にわたる。のちにアレクサンドリアの図書館で、ヒッポクラテスの名のもとにまとめられたものと考えられている。どれが本人の書いたものか、あるいは一つでも本人の手になるものがあるのかは、古代から議論されてきて、いまも決着していない。

それでも、この集典には共通する態度がある。病気を、神々の怒りや呪いではなく、自然の原因から起こる出来事として扱うことである。その代表が『神聖病について』という一篇で、当時、神が取りつくと信じられていたてんかんを取り上げている。この病気は、ほかの病気より神聖なわけではなく、ほかの病気と同じく自然の原因を持っている。人々が神聖と呼ぶのは、原因が分からず、驚いているからにすぎない、と書いた。お祓いや呪文で治すと称する者たちを、無知を隠すためのいかさまだと批判している。

2世紀、ガレノスの著作のビザンティン版に描かれたヒポクラテスのベンチ。巻き上げ機のついたロープで身体を引張り、背骨の歪みや骨折して骨が重なり合った状態を整復するために使われた。
2世紀、ガレノスの著作のビザンティン版に描かれたヒポクラテスのベンチ。巻き上げ機のついたロープで身体を引張り、背骨の歪みや骨折して骨が重なり合った状態を整復するために使われた。Wikimedia Commons Public domain

『空気、水、場所について』という一篇は、町を訪れた医者がまず見るべきものとして、風向き、水の質、土地の高さ、季節、人々の暮らし方を挙げる。住む環境が健康に影響するという考えは、2000年以上後の公衆衛生につながっていく。『流行病』と題された書物には、患者一人一人の症状が、日を追って記録されている。その中には、治療の甲斐なく亡くなった患者の記録も多い。成功例だけを並べず、病の経過をありのままに記すことが、医学の基礎とされた。『予後』は、病気がこの先どう進むかを見通すことの大切さを説いている。

体の中には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四つの液があり、それがほどよく混ざっていれば健康、偏れば病気になる、という「四体液説」も、集典の一篇に説かれている。この考えは、のちにローマ時代のガレノスによって体系化され(ガレノスの医学)、ヨーロッパとイスラーム世界の医学を1500年以上にわたって支配した。いまから見れば誤りだが、病を体の中の自然の釣り合いの問題として考えようとした点では、一貫していた。

古代ギリシアの外科医療器具。左:トレフィン(冠状鋸)、右:メスのセット。ヒポクラテス学派の医者達はこれらの器具を有効に活用した。
古代ギリシアの外科医療器具。左:トレフィン(冠状鋸)、右:メスのセット。ヒポクラテス学派の医者達はこれらの器具を有効に活用した。Wikimedia Commons Public domain

集典の『箴言』は、人生は短く、技術の道は長い、機会は逃げやすく、経験はあてにならず、判断は難しい、という言葉で始まる。前半の部分は、のちにラテン語で「芸術は長く、人生は短し」と訳され、医術とは別の意味で広く知られるようになった。

集典の中で最も有名なのが、「誓い」である。医者たちは、アポロンやアスクレピオスら医術の神々に誓って、自分に医術を教えた師を親のように敬い、その子らには無償で教えること、患者の利益のために治療し、害や不正を加えないこと、求められても人を死なせる薬を与えないこと、知り得た秘密を漏らさないこと、などを約束した。この誓いも、いつ誰が作ったものか分かっておらず、医者の一部の集団だけのものだったとする説もある。

アイゼンメンゲル症候群の患者にみられるばち指。ヒポクラテスによって最初に症状が記録されたことから「ヒポクラテス指」や「ヒポクラテス爪」ともいう。
アイゼンメンゲル症候群の患者にみられるばち指。ヒポクラテスによって最初に症状が記録されたことから「ヒポクラテス指」や「ヒポクラテス爪」ともいう。Wikimedia Commons Ann McGrath · Public domain

「誓い」は、中世から近代にかけて、ヨーロッパの医学校で医者の心得として受け継がれた。第二次世界大戦中にナチス・ドイツの医師たちが行った人体実験への反省から、1948年に世界医師会が「ジュネーヴ宣言」を定めたときも、その手本になった。いまの医学部の卒業式で読まれる誓いは、多くの場合、神々への呼びかけや、中絶や安楽死にかかわる部分、医術を師の家系に限る部分を、現代に合わせて書き換えたものである。

ヒッポクラテスは「医学の父」と呼ばれる。本人が何を書いたかは分からない。だが、病を観察し、記録し、自然の原因を探り、患者のために尽くすという医者の姿は、彼の名とともに2400年受け継がれてきた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC460年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →