ハレーの彗星の予言
概要
1682年の彗星が、1531年と1607年の彗星と同じ軌道だと計算して、「1758年に戻る」と書いた。ニュートンの重力で。ハレーは1742年に死に、1758年のクリスマスにドイツの農民天文学者パリッチが見つけた。彗星は神の警告でなく、時計のように戻る物になった。ハレーは『プリンキピア』の出版費を自分で払った人。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(2)
エドモンド・ハレーAD1656年11月8日–AD1742年1月25日 · 予言したアイザック・ニュートンAD1643年–AD1727年 · 重力本文
彗星は、古代ギリシアのアリストテレス以来、空の高いところで燃える大気の中の現象と考えられ、多くの土地で王の死や戦や疫病の前触れとされてきた。1577年、ティコ・ブラーエは大彗星を観測し、見る場所を変えても位置がほとんどずれないことから、彗星が月よりはるかに遠くにあることを示した。ヨハネス・ケプラーは、彗星は直線に近い道を通り過ぎてゆくと考えた。1680年の大彗星について、アイザック・ニュートンは1687年の『『プリンキピア』』で、太陽の重力に引かれて細長い曲線を描く軌道を計算してみせた。
その『プリンキピア』の出版を促し、王立協会(王立協会の設立)に金が無かったために印刷の費用を自分で払ったのが、エドモンド・ハレーである。ハレーは1695年ごろから、古い記録に残る彗星の観測を集め、ニュートンのやり方でその軌道を一つずつ計算し直した。1337年から1698年までの24個の彗星である。

並べてみると、1682年に彼自身が観測した彗星と、1607年にケプラーらが観測した彗星、1531年にドイツの天文学者アピアヌスが観測した彗星は、軌道の傾き、太陽に最も近づく点の向き、惑星とは逆向きに回る点まで、ほとんど同じだった。間隔はおよそ75年から76年。ずれは、木星や土星の重力に引かれて道が少し変わるためだと、ハレーは考えた。
1705年、ハレーは『彗星天文学概要』を発表し、この三つは同じ一つの彗星であり、1758年に戻ってくるだろう、と書いた。のちには木星の影響を見積もって「1758年の終わりか1759年の初め」と直している。晩年にまとめ、死後に出た天文表では、もし予言どおりに戻ったなら、それを最初に見つけたのがイギリス人だったことを後の世の人は認めてくれるだろう、と書き添えた。1742年、ハレーは85歳で死に、答えを見ることはなかった。

1758年が近づくと、フランスの数学者クレローは、天文学者ラランドと、計算を担った女性ニコル=レーヌ・ルポートの手を借りて、木星と土星の引く力を何か月もかけて計算した。11月、彼らは、彗星が太陽に最も近づくのは1759年4月の半ば、前後に1か月ほどの誤差がある、と発表した。
1758年12月25日、ドレスデンの近くの村に住む農民で、独学で天文学を学んでいたヨハン・パリッチが、自分の望遠鏡で戻ってきた彗星を見つけた。彗星が太陽に最も近づいたのは1759年3月13日で、クレローの予想の誤差の内に収まった。天文学者たちは、これを「ハレー彗星」と呼ぶようになった。

これは、ニュートンの重力の理論にとって決定的な証拠となった。地上のりんごにも、月にも、惑星にも働く同じ力が、太陽系の果てから戻る彗星にも及び、その帰りを何十年も前から言い当てられる。彗星は神の警告ではなく、時計のように戻ってくる太陽系の一員になった。
さかのぼれば、この彗星は何度も記録されていた。1066年の出現は、イングランドの王ハロルドの不吉の兆しとして、ヘイスティングズの戦いを描いたバイユーの刺繍の絵に縫い取られている。中国の『史記』には紀元前240年の彗星の記録があり、これがハレー彗星の最も古い確かな記録とされる。

その後、彗星は1835年、1910年、1986年に戻った。1835年に生まれたマーク・トウェインは、自分は彗星とともに来たのだから彗星とともに去るだろうと語り、1910年、彗星が再び見えるなか世を去った。この年には地球が彗星の尾の中を通ると予想され、尾の毒のガスを防ぐという薬が売れた。1986年には、ヨーロッパの探査機ジオットが彗星に近づき、長さ15キロほどの、じゃがいものような黒い核を写した。次に戻るのは2061年である。