電子顕微鏡
概要
光の顕微鏡には、原理的な限界がある。光の波長より小さいものは、見えない。おおよそ0.2マイクロメートル。ベルリン工科大学の学生エルンスト・ルスカと、指導者マックス・クノールが、電子の流れを磁界のレンズで曲げる装置を作った。電子の波長は、光よりはるかに短い。1933年、光学顕微鏡を超える倍率に達した。ウイルスが、初めて見えた。細胞の内部の構造が、見えた。ルスカがノーベル賞を受けたのは、55年後の1986年である。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
関わった人(1)
エルンスト・ルスカAD1906年12月25日–AD1988年5月27日 · 作った本文
光の顕微鏡には、どうしても越えられない壁がある。1873年、ドイツのイェーナでカール・ツァイスの工房と組んで顕微鏡の設計を研究していた物理学者エルンスト・アッベは、それを式に表した。見分けられる二つの点の間隔は、使う光の波長のおよそ半分より小さくできない。目に見える光の波長は四百から七百ナノメートルほどなので、どれほど優れたレンズを作っても、二百ナノメートル、つまり〇・二マイクロメートルほどより細かいものは見分けられない。アッベの理論は顕微鏡の設計を勘と経験から理論へと移したが、同時に、光の顕微鏡の限界をはっきり示すことにもなった。
その壁の向こうに、見たいものがあった。十九世紀の終わり、ロシアのイワノフスキーは、タバコの葉にモザイク模様を作る病気の病原体が、細菌を通さない細かな濾過器をすり抜けることを示し、オランダのベイエリンクは、それを生きて広がる液状の何かと呼んだ。何かがいる。しかし見えない。のちにウイルスと呼ばれるものの多くは、大きさが数十から数百ナノメートルで、光の顕微鏡の限界より小さかった。細胞の中の細かな仕組みも、同じように見えないままだった。

手がかりは物理学からやってきた。1924年、フランスのルイ・ド・ブロイは、光が粒の性質を持つように、電子のような物質の粒にも波の性質があると唱えた。電子を速く走らせるほど、その波長は短くなる。高い電圧で加速した電子の波長は、目に見える光の十万分の一ほどにまでなる。1927年にはアメリカのデイヴィソンとガーマー、イギリスのG・P・トムソンが、電子が波のように回折することを実験で確かめた。電子が粒であることを示したJ・J・トムソンの息子が、電子が波であることを示してノーベル賞を受けたことになる。一方、1926年にはドイツのハンス・ブッシュが、軸のまわりに対称な磁界が電子の流れに対してレンズのように働くことを示していた。電子の像は、拡大できるのである。
これを顕微鏡の形にしたのが、ベルリン工科大学の学生エルンスト・ルスカ(1906〜1988年)と、指導にあたったマックス・クノールだった。二人の研究の目的は、もともと顕微鏡ではなかった。電子の流れを速く正確に動かして電気の信号を記録する装置の研究で、そのために電子の束を細く絞る必要があった。1931年4月、二人は磁界のレンズを二段に重ねた装置を組み立て、網の像を拡大して映し出した。倍率は十数倍で、顕微鏡としては虫眼鏡にも及ばない。だが、電子で像を拡大できること、そしてレンズを重ねれば倍率を上げられることが確かめられた。ルスカは後に、このころはまだド・ブロイの理論を知らなかったと述べている。それを知ってから、電子の波長の短さを考えれば、この装置は原理的には光の顕微鏡をはるかに超えうると気づいたのである。

1933年、ルスカは改良した装置で、ついに光の顕微鏡の分解能を超えた。だが実用までには、いくつもの壁があった。電子は空気の分子にぶつかると散らばってしまうので、装置の中を真空にしなければならない。生きたものはそのままでは見られない。電子の束が当たった試料は熱を持ち、初期の実験では目の前で焦げてしまうこともあった。生物の体は炭素や水素、酸素、窒素といった軽い元素ばかりでできているため、電子の通り方に差が出にくく、像がはっきりしない。そこでオスミウムや鉛、ウランのような重い金属で染める方法が工夫された。電子は厚いものを通り抜けられないので、試料はごく薄く切らなければならない。ガラスやダイヤモンドの刃で数十ナノメートルの厚さに切る装置が実用になったのは1950年代のことで、細胞の内部が本格的に見えるようになったのはそれからだった。
1937年、ルスカはジーメンス社に入り、1939年には最初の量産型の電子顕微鏡が世に出た。医師だった弟のヘルムート・ルスカは、この装置を医学と生物学に使った最初の一人になり、1939年、タバコモザイクウイルスの姿を写し取る研究に加わった。五十年近く存在が推測されながら、誰も見たことのなかったものが、ついに見えたのである。ヘルムートはその後も多くのウイルスの形を観察し、形によってウイルスを分ける研究の土台を作った。

第二次大戦の後、電子顕微鏡は細胞の中の世界を次々に明らかにした。ミトコンドリアの内側に折りたたまれた膜、細胞の中に張りめぐらされた小胞体、タンパク質を作るリボソーム、神経と神経のつなぎ目。細胞生物学という分野は、この装置とともに生まれたと言ってよい。その中心にいたアルベール・クロード、ジョージ・パラーデ、クリスチャン・ド・デューヴの三人は、1974年にノーベル賞を受けた。1960年代には、試料の表面を電子の束でなぞって立体的な像を得る走査型の電子顕微鏡が売り出され、花粉や昆虫の複眼のあの不思議な写真が広く知られるようになった。1981年には、原子を一つずつ見分けられる走査型トンネル顕微鏡が、スイスにあった研究所のビーニッヒとローラーによって作られた。
ルスカがノーベル物理学賞を受けたのは1986年、最初の装置から五十五年後のことで、彼は七十九歳になっていた。同じ年には、走査型トンネル顕微鏡のビーニッヒとローラーも受賞し、二つの世代の顕微鏡がそろって顕彰された。共に研究を始めたクノールは1969年に、弟のヘルムートは1973年に、すでに世を去っていた。ノーベル賞は亡くなった人には贈られない。ルスカは1988年、ベルリンで八十一歳で死去した。

その後も電子顕微鏡は進歩を続けた。試料を一瞬で極低温に凍らせ、染めたり結晶にしたりせずに、タンパク質をほぼ本来の形のまま見るクライオ電子顕微鏡の技術には、2017年のノーベル化学賞が贈られた。2020年、新しいコロナウイルスが現れたとき(COVID-19の世界的流行)、ウイルスの表面にある突起のタンパク質の形はこの技術によって数週間のうちに決められ、ワクチンの設計を支えた(mRNAワクチンの接種開始)。いまでは電子顕微鏡の分解能は、原子の大きさより小さい〇・〇五ナノメートルを下回るところまで来ている。光の波長の壁を越えようとした学生の装置は、物の形を原子の並びまで見る道具になった。