できごと

ウルグ・ベクの星表

Zij-i Sultani
AD1437年
重要度 5
シベリアの諸集団カルマル同盟白帳ハン国明キプチャク汗国青帳ハン国チャガタイ汗国ティムール朝マムルーク朝チベットノヴゴロド公国ポーランド・リトアニア共和国サーミデリー・スルタン朝リトアニア大公国パガン朝エチオピア帝国オスマン帝国アユタヤ朝マクリアヴィジャヤナガル王国ハンガリー王国ハドラマウトKashmir and Ladakhセルジューク朝スコータイ朝大越Teutonic Knights大越イエメンアルワオリッサマスカットヴェネツィア共和国チョーラ朝ワラキア公国Beylik of Aydinブルガール可汗国モルドバ東ローマ帝国チャンパAD1437年サマルカンド
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1437年の版図を描いています(41勢力)。

概要

ティムールの孫が、サマルカンドに半径40メートルの六分儀を地中に埋めて作り、30年、星を測った。1018個の星の位置。1年の長さを365日5時間49分15秒とした(誤差25秒)。ヒッパルコス以来、最も正確な星表で、ヨーロッパが追い抜くのは17世紀。1449年、王位を継いだ息子に殺された。天文台は宗教者に壊され、20世紀に地中の六分儀の溝だけが見つかった。

場所

サマルカンド
39.63°N 66.97°E · ウズベキスタン

関わった人(1)

ウルグ・ベクAD1394年3月22日–AD1449年10月27日 · 測った

本文

14世紀の後半、中央アジアのサマルカンドを都として、ティムールは西アジアから中央アジアにまたがる大帝国を築いた(ティムール帝国の拡大)。遠征のたびに、征服した都市から職人や学者をサマルカンドへ連れ帰り、青いタイルに覆われたモスクや廟を建てさせた。1394年、その遠征の途上、イラン北西部のスルターニーヤで、ティムールの四男シャー・ルフに男の子が生まれた。本名はムハンマド・タラガイ。のちに「偉大な君主」を意味するテュルク語の呼び名、ウルグ・ベク(ウルグ・ベク)で知られる人である。

1405年にティムールが死ぬと、帝国は後継者争いで揺れたが、やがてシャー・ルフがヘラートを都として実権を握った。1409年、シャー・ルフは15歳の息子に、サマルカンドを中心とする帝国の東半分の統治を任せた。以後40年近く、ウルグ・ベクはこの町を治めることになる。彼は祖父のような征服者ではなかった。戦にも出たが、本当に情熱を注いだのは学問、とりわけ数学と天文学だった。

ウルグ・ベクと彼の天文台を描いた1987年のソ連切手
ウルグ・ベクWikimedia Commons Scanned and processed by Mariluna · Public domain

1417年から1420年にかけて、彼はサマルカンドの中心のレギスタン広場に、壮麗なマドラサ(学院)を建てた。いまも広場に立つ三つの学院のうち、最も古いものである。ここでは宗教学だけでなく、天文学や数学が教えられた。ウルグ・ベクはイスラーム世界の各地から優れた学者を招いた。中でも重要だったのが、イラン出身のギヤースッディーン・ジャムシード・カーシーと、アナトリア出身のカーディーザーデ・ルーミーである。カーシーは計算の天才で、円周率を小数点以下16桁まで正しく求め、10進法の小数を体系的に使う方法を著作にまとめた。

1420年代、ウルグ・ベクは町の北東の丘の上に天文台を建てた。直径46メートルほどの円筒形の3階建ての建物で、その中心に、巨大な観測器具が組み込まれていた。子午線に沿って地面を深く掘り下げ、そこに半径40メートルあまりの円弧を石とれんがで築いた、いわゆる「ファフリー六分儀」である。弧の一部は地下に、残りは地上の建物の中にそびえていた。器具が大きいほど目盛りを細かく刻めるので、測定の精度が上がる。太陽や月、惑星が南中する瞬間に、その光が弧の上に落ちる位置を読み取り、高さを測った。こうした巨大な器具で精度を稼ぐ考え方は、2世紀前にフレグの援助で築かれたマラーガの天文台(マラーガ天文台)から受け継がれたものだった。

レギスタン広場(サマルカンド)
レギスタン広場(サマルカンド)Wikimedia Commons Registan_-_Gusjer.jpg : Gustavo Jeronimo from Aranjuez, Spain derivative work: MrPanyGoff · CC BY 2.0

天文台では、ウルグ・ベク自身も観測に加わり、学者たちとともに長年にわたって太陽と月と惑星、そして恒星を測り続けた。カーシーは天文台の完成からまもなく亡くなり、カーディーザーデも観測の途中で世を去ったが、その弟子のアリー・クシュチーらが仕事を引き継いだ。成果は1437年ごろ、ペルシア語の天文表『ズィージ・イ・スルターニー』(スルターンの天文表)にまとめられ、その後も1449年ごろまで手直しが続けられた。

天文表は4部からなる。暦の換算法、三角法と天文計算の方法、惑星の位置の計算、そして恒星の目録である。三角法の部分には、正弦と正接の値が角度の1分ごとに、きわめて細かい桁まで並べられていた。星の目録には1018個の恒星の位置が収められている。2世紀のプトレマイオスが『アルマゲスト』(『アルマゲスト』)に載せた約1000個の星の目録は、紀元前2世紀のヒッパルコスの観測にさかのぼるとされ、その後1000年以上、イスラーム世界でもヨーロッパでも、多くはその値を歳差の分だけずらして使い回してきた。ウルグ・ベクの天文台は、サマルカンドから見えない南天のものなどを除き、その大部分の星を自分たちの手で測り直した。古代以来、独自の観測にもとづいて作られた最初の大規模な星の目録とされ、16世紀の末にティコ・ブラーエが新しい目録を作るまで、これを超える精度のものはなかった。

『アルマゲスト』に関わる図版:Claudius Ptolemaeus, Almagestum, 1515
『アルマゲスト』Wikimedia Commons Ptolemy · Public domain

1年の長さについても、彼らは際立った値を出した。季節の巡りで測る1年(回帰年)を365日5時間49分15秒としたとされ、現代の値との差は30秒足らずである。地球の自転軸の傾き(黄道傾斜)の値も、きわめて正確だった。

だが学者としての名声は、為政者としての成功を意味しなかった。1447年に父シャー・ルフが死ぬと、ウルグ・ベクは帝国の主の座を継いだが、各地の王族や有力な軍人たちの争いを抑えられなかった。保守的なイスラーム法学者たちの一部は、星を測ることにうつつを抜かす君主を快く思っていなかったとも言われる。1449年、長男のアブドゥッラティーフが反旗を翻した。ウルグ・ベクは敗れて降伏し、メッカへの巡礼に出ることを許されて都を発った。しかしその途上、息子が差し向けた者によって殺された。55歳だった。手を下したのは、かつてウルグ・ベクに父を処刑された男だったと伝えられる。

サマルカンドの位置を示すウズベキスタンの地図
サマルカンドの位置を示すウズベキスタンの地図Wikimedia Commons Kirisame · Public domain

父を殺したアブドゥッラティーフも、半年後には自らの家臣に殺された。天文台は主を失って荒れ、やがて取り壊された。学者たちは散り散りになった。アリー・クシュチーは天文表の写本を携えて西へ向かい、のちにオスマン帝国のイスタンブールに招かれて、そこで天文学と数学を教えた。『ズィージ・イ・スルターニー』はイスラーム世界で広く写され、17世紀にはオックスフォードの学者がその一部をラテン語に訳して出版し、ヨーロッパの天文学者にも知られるようになった。

天文台の場所は、長く忘れられていた。1908年、ロシアの考古学者ヴァシーリー・ヴャトキンは、古い寄進の文書の記述を手がかりに丘を掘り、地中に埋もれていた巨大な六分儀の弧の下半分を掘り当てた。地上にそびえていた部分は失われていたが、地下に掘り込まれた部分だけが残っていたのである。いまその場所は博物館になっており、訪れる人は階段を降りて、目盛りを刻んだ石の溝を間近に見ることができる。ウルグ・ベク本人の遺骸は、祖父ティムールと同じグーリ・アミール廟に葬られた。1941年にソ連の調査団が墓を開いたとき、首を切られた跡のある遺骨が見つかり、伝えられた最期が確かめられた。

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