『星界の報告』
概要
オランダで作られた覗き眼鏡の噂を聞いて、ガリレオは自分で作り、倍率を20倍以上に上げた。そして、空へ向けた。月に山と谷があった。天の川は無数の星の集まりだった。木星に、四つの星が付き従っていた。それらは、木星の周りを回っていた。地球以外のものを中心に回る天体が、確かに存在する。24ページの小冊子を、彼は数か月で書いて出した。550部は、すぐ売り切れた。道具が、宇宙の見え方を変えた最初の例である。
場所
45.41°N 11.88°E · イタリア・ヴェネト州
関わった人(1)
ガリレオ・ガリレイAD1564年2月15日–AD1642年1月8日 · 見た本文
始まりは、オランダからの噂だった。1608年、ミデルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイが、二枚のレンズを筒に入れると遠くのものが大きく見える道具の特許を、オランダの議会に願い出た。特許は下りなかった。ほかにも同じものを作っている者がいる、というのが理由である。
誰が最初に作ったのかは、いまも決まっていない。ヤコブ・メティウスやザカリアス・ヤンセンの名も挙がる。13世紀末のイタリアで眼鏡が作られてから(眼鏡の発明)三百年あまり、レンズを磨く技術はヨーロッパの職人の間に広く行きわたっていた。

1609年の夏、その噂がヴェネツィア共和国に届いた。耳にしたのは、パドヴァ大学で数学を教えていたガリレオ・ガリレイである。45歳。給料は高くなく、下宿人を置き、家庭教師をし、工房で計算尺のような器具を作って売って暮らしを補っていた。彼は理屈を立てるだけでなく、手を動かして物を作ることに長けていた。
ガリレオは、オランダの道具を見ていない。噂を聞いただけで原理を推し量り、自分で作った。凸レンズを前に、凹レンズを目の側に置く組み合わせで、像は正立するが、視野がひどく狭い。月を覗いても全体が一度に入らないほどだった。それでも彼はレンズを自分で磨き続け、オランダの道具が3倍ほどだったのに対し、まもなく8倍、そして20倍以上のものを作り上げた。

最初に使い道を見せたのは、空ではなく海だった。1609年8月、ガリレオはヴェネツィアの元老院の議員たちをサン・マルコの鐘楼に招き、沖の船を覗かせた。肉眼で見えるよりも2時間以上早く、近づいてくる船が分かる。海で生きる共和国にとって、これは軍事と商売の情報そのものである。彼が筒を献上すると、元老院は給料を倍に上げ、終身の教授職を約束した。ただし後から条件が付き、ガリレオは不満を募らせることになる。
その秋、彼は筒を空へ向けた。空を覗いたのは彼が最初ではない。イングランドのトマス・ハリオットは、1609年7月26日に望遠鏡で月を見てスケッチを残している。ただ、ハリオットは何も発表しなかった。歴史がこの発見をガリレオの名で記憶しているのは、彼が見たものを書き、すぐに世に出したからである。

最初に見えたのは、月の凸凹だった。アリストテレス以来の宇宙観では、月より上の世界は完全で変わることがなく、天体は滑らかな球のはずだった。ところが望遠鏡の月には、山があり、谷があり、くぼみがあった。明るい部分と暗い部分の境目は、ぎざぎざに乱れていた。
ガリレオは若い頃に素描を学んでおり、明暗の境界を、光の当たった立体として読み取ることができた。彼は境目の外に光る点を山頂と見て、その位置から月の山の高さまで計算している。そのとき描いた月の水彩画が、いまも残っている。

天の川も姿を変えた。肉眼では白くぼんやりした帯だが、望遠鏡で見ると、無数の小さな星の集まりだった。ガリレオは、天の川の本性をめぐる古い論争は、目で直接確かめたことで終わった、という意味のことを書いている。星の数そのものも、肉眼で見えるよりはるかに多かった。オリオン座の帯と剣のあたりに80を超える新しい星を描き入れ、プレアデス星団には36の星を描いた。
いちばん大きな発見は、1610年1月7日の夜に始まった。木星の脇に、小さな星が三つ、一直線に並んでいた。翌8日、その並びが変わっていた。10日には二つしか見えず、13日には四つになった。

ガリレオは毎晩見て、位置を書き留めた。最初は背景の恒星だと思い、次に木星のほうが動いているのかと考え、ついに、四つの星が木星の周りを回っているのだと結論した。考えが変わっていく過程が、観測の記録にそのまま残っている。
これは、コペルニクスの地動説にとって重い意味を持った。地動説に向けられていた有力な反論の一つに、地球が太陽の周りを動いているなら、月は置いていかれるはずだ、というものがあった。ところが木星は、四つの月を連れて動いている。それなら、地球が一つの月を連れて動いていてもおかしくはない。木星の衛星は地動説を証明したわけではないが、地球以外のものを中心に回る天体が確かにあることを示し、すべてが地球の周りを回るという前提を崩した。

ガリレオは急いだ。木星の衛星に気づいてから2か月あまりの1610年3月13日、ヴェネツィアで、ラテン語の小冊子『シデレウス・ヌンキウス』を出した。「星界の報告」とも「星からの使者」とも訳せる題である。数え方によって24葉とも60ページともされる薄い本で、刷ったのは550部だった。
先を越されるのを恐れたこともあるが、もう一つの狙いは就職だった。彼は四つの衛星を「メディチ星」と名づけ、本をトスカーナ大公コジモ2世に献じた。コジモ2世は、かつてガリレオが家庭教師をした教え子である。この献辞は効いた。同じ年、彼はトスカーナ大公付きの首席数学者兼哲学者に迎えられ、講義の義務から解放されてフィレンツェへ移った。
本はすぐに売り切れた。写しと評判はドイツ、フランス、イングランドへ広がり、数年のうちには北京にいたイエズス会士が漢文で書いた天文書にも、木星の衛星のことが紹介された。皇帝付きの数学者だったヨハネス・ケプラーは、自分では望遠鏡を持たないまま、ガリレオの記述を信じて支持する書簡を公にした。のちに彼は自分でも観測し、凸レンズを二枚使う新しい望遠鏡を設計する。像は逆さまになるが視野が広く、以後の天体望遠鏡はこの方式が主流になった。
拒む者もいた。パドヴァの哲学教授チェーザレ・クレモニーニは、望遠鏡を覗くことそのものを断った。アリストテレスの体系に立つ彼にとって、レンズ越しの像が論理に勝るはずはなかった。同じく覗くのを拒んだジュリオ・リブリが死んだとき、ガリレオが「地上では見ようとしなかった彼も、天へ昇る途中で見るだろう」と皮肉ったという話が伝わるが、後の脚色を含むかもしれない。
その後も発見は続いた。1610年の秋には、金星が月のように満ち欠けし、見かけの大きさも変わることを確かめた。金星が常に太陽と地球の間にあるとするプトレマイオスの体系では、この満ち欠けは説明できない(太陽の周りを惑星が回り、その太陽が地球の周りを回るというティコ・ブラーエの体系なら説明はつく)。ガリレオはこの発見をまず文字を並べ替えた暗号文にして、先に見つけたのは自分だという証拠を確保した。
当時よく使われた手である。太陽の黒点を観測して太陽が自転していることを示し、土星の両脇に「耳」のようなものを見た。それが環であることは、ホイヘンスがより良い望遠鏡で明らかにする。
こうした発見は、やがて教会との衝突を招いた。1616年、教皇庁はコペルニクスの説を退け、ガリレオにそれを支持しないよう警告した。1632年に『天文対話』を出したガリレオは、翌年のガリレオの異端審問で有罪となり、生涯を自宅で軟禁されて過ごすことになる。

『星界の報告』が変えたのは、宇宙の像だけではない。それまで人類が見ていた宇宙は、肉眼で見える範囲に限られていた。この薄い本が出てからは、どこまで見えるかは道具の性能で決まるようになった。理論や思想ではなく、二枚のレンズを筒に入れたものが世界の見え方を変えた最初の例である。その延長線上に、ニュートンの反射望遠鏡があり、のちの宇宙望遠鏡がある。