ド・プロニーの計算工場
概要
革命政府は、十進法にもとづく新しい三角関数表と対数表を必要とした。桁数も規模も、前例が無い。ガスパール・ド・プロニーは、アダム・スミスのピン工場の記述を読んで着想した。仕事を三層に分ける。上層の数学者数人が式を決め、中層の十人ほどが計算の手順に落とし、下層の百人近くが足し算と引き算だけを繰り返す。下層の多くは、革命で職を失った理髪師だったと伝えられる。人間を部品として組んだ計算機であり、バベッジが機械化を構想する直接の手本になった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ガスパール・ド・プロニーAD1755年7月22日–AD1839年7月29日 · 組織した本文
フランス革命の政府は、度量衡を十進法でそろえようとしていた(メートル法の制定)。長さや重さだけでなく、角度も十進法に改める計画で、直角を百等分した「グラード」という単位が考えられた。測量のためである。だがそうなると、それまでの六十進法の角度で作られた三角関数の表は使えない。新しい単位にもとづく三角関数の表と、それを使う計算に欠かせない対数の表を、一から作り直さなければならなかった。
1791年、この仕事を命じられたのが、土木技師ガスパール・ド・プロニー(1755〜1839年)である。国立の土木学校で学び、橋や運河や水力の専門家として名を上げていた彼は、全国の土地を測って台帳を作る地籍局の長に任じられていた。求められた数表は、桁数も数の多さも前例が無かった。三角関数の値を十数桁から二十数桁の精度で、細かい角度ごとに求め、一から二十万までの数の対数を十数桁で並べる。全部で数百万の数値になる。17世紀にネイピアの対数が発明されて以来、対数表は何人もの手で作られてきたが、それらとは規模がまるで違った。フランスの数学者を総動員しても足りず、しかも国は革命のさなかで、時間も金も無かった。
途方に暮れたプロニーに道を示したのは、一冊の経済書だったと、彼は後に語っている。アダム・スミスの『国富論』である。その冒頭に、ピン工場の話がある。一人の職人がすべての工程をこなせば、ピンは一日に一本作るのがやっとかもしれない。だが仕事を十八ほどの工程に分ければ、十人で一日に四万八千本を作れる。分業の力である。プロニーは考えた。数の計算も、ピンと同じように分けて作れないか。対数をピンのように製造しよう、というのである。

彼は仕事を三つの層に分けた。最上層には、ルジャンドルをはじめとする数人の優れた数学者を置いた。彼らの仕事は、どの公式を使うかを決め、その公式を「差分」の形に書き直すことだった。差分法を使うと、複雑な関数の値を、隣り合う値との差を足していくだけで、次々に求められるようになる。掛け算や割り算を、足し算と引き算の繰り返しに置き換えるのである。これがこの事業の要だった。
中間の層には、十人ほどの計算の熟練者がいた。上層が決めた式を、具体的な数値の手順に落とし込み、下の層に配る用紙を作る。下から戻ってきた結果を確かめるのも彼らの仕事で、同じ計算を二つの組に別々にやらせて突き合わせ、合わなければやり直させた。

そして最下層に、六十人から八十人ほどの計算係がいた。彼らがするのは、足し算と引き算だけである。用紙に書かれた数を足し、あるいは引き、結果を書き込む。自分が何を計算しているのか、対数とは何なのかを、彼らは知らなかった。この計算係の多くは、革命で職を失った理髪師だったと伝えられる。貴族の鬘を結っていた人々が、主人を失って仕事にあぶれていた、という話である。よく語られる逸話だが、裏づけは限られている。プロニー自身は、読み書きと初歩の算術しかできない人々だったと書いている。そして、数学を知らない下層の人々のほうが、かえって間違いが少なかったという観察も残っている。数学を知る者は近道を工夫して、そこでつまずく。何も知らない者は、言われたとおりに手を動かす。
数年の作業の末、数表は大判の手稿十数巻にまとめられた。ところが、それは印刷されなかった。革命政府には印刷の費用が無く、その後の政権も金を出さなかった。のちにイギリスと共同で出版する話も持ち上がったが、実現しなかった。手稿はいまもパリ天文台などに保管されているが、完全な形で刊行されたことは一度も無い。しかも、十進法の角度そのものが、一部の測量を除いてほとんど定着しなかった。膨大な労力をかけた数表は、ほとんど使われずに終わったのである。
それでも、この事業は思わぬところで実を結んだ。1819年ごろ、イギリスの数学者チャールズ・バベッジがパリを訪れ、この計算工場の話を知った。最下層の人々がしているのは、足し算と引き算の機械的な繰り返しである。それなら、人ではなく機械にやらせることができる。数年後、バベッジは差分法を歯車で実行する機械、バベッジの階差機関と解析機関を構想した。計算の結果を印刷するところまで機械にやらせようとしたのは、人が手で写すときに誤りが入り込むからだった。バベッジは、プロニーの事業から着想を得たことをはっきり書き残している。
人を部品として組み、計算の手順を分けて流すというプロニーの方法は、その後も長く生き続けた。19世紀から20世紀の半ばまで、天文台や弾道の研究所、のちの航空宇宙の研究機関には、「コンピューター」と呼ばれる職員がいた。もともと計算をする人を指す職業の名前で、その多くは女性だった。19世紀末のハーヴァード大学の天文台で星の明るさを計算した女性たちや、アメリカの宇宙開発で軌道を計算したキャサリン・ジョンソンらである。やがてその仕事が電子の機械に置き換えられたとき、機械は、彼女たちの職業の名前をそのまま受け継いだ。ピン工場から生まれた計算の分業は、こうしていまのコンピューターの名前の中に残っている。