人物

カール・ラントシュタイナー

Karl Landsteiner
AD1868年6月14日 – AD1943年6月26日(享年75)
オーストリア重要度 4

概要

ウィーン。父は新聞の編集者で、6歳のとき死んだ。医学と化学を修め、病理解剖学へ。1901年、血液型を発見。1908年、ポリオがウイルスによることを猿の実験で示した。第一次大戦後のオーストリアの窮乏を逃れてオランダへ移り、1922年からニューヨークのロックフェラー研究所。1930年ノーベル賞。1940年、ウィーナーとともにRh因子を見つけた。研究室で発作を起こし、そのまま死んだ。

関わったできごと(1)

血液型の発見AD1901年 · 見つけた

本文

カール・ラントシュタイナーは1868年6月14日、ウィーン近郊の温泉町バーデンに生まれた。父レオポルトは名の知れたジャーナリストで、新聞の発行にも携わった人物だった。カールが6歳のとき父が死に、母が一人で育てた。彼は生涯この母を深く慕い、母の死後はそのデスマスクを寝室の壁に掛けていたと伝えられる。

カール・ラントシュタイナーの肖像
カール・ラントシュタイナーの肖像Wikimedia Commons Henry Lytton Cobbold · Public domain

ウィーン大学で医学を学び、1891年に学位を得た。その前年には、ユダヤ教からカトリックに改宗している。学生のころから化学に強く惹かれ、卒業後の5年ほどは、チューリヒのハンチュ、ヴュルツブルクのエミール・フィッシャー(のちのノーベル化学賞受賞者)、ミュンヘンのバンベルガーと、ヨーロッパの化学の研究室を渡り歩いた。医学者でありながら分子の言葉で考える癖は、ここで身についた。

ウィーンに戻ると衛生学の研究所を経て、病理解剖学の研究所に入った。ここで10年あまりのあいだに3600体以上の解剖を手がけたとされる。解剖台の仕事のかたわら、血清と免疫の化学を調べ続けた。

幼少期のラントシュタイナー
幼少期のラントシュタイナーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1900年、彼は論文の脚注に、健康な人の血清が、ほかの健康な人の赤血球を固まらせることがある、と短く書いた。それまで、こうした凝集は病気のしるしだと考えられていた。だが健康な人どうしでも起こるのなら、人の血には生まれつき違う種類があることになる。

翌1901年、彼は自分と研究室の同僚たちの血を血清と赤血球に分け、総当たりで混ぜ合わせた。固まる組み合わせと固まらない組み合わせには、はっきりした規則があった。彼はそれをA、B、C(のちのO)の3つの型に分けた(血液型の発見)。1902年には、同じウィーンのデカステッロとストゥルリが、より多くの人を調べて4つ目の型(AB)を見つけている。

実験室のラントシュタイナー
実験室のラントシュタイナーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

発見はすぐには医療を変えなかった。輸血の前に血の相性を確かめる方法がニューヨークで使われ始めたのは1907年で、広く行われるようになったのは第一次世界大戦のころからである。

1908年、彼はエルヴィン・ポッパーとともに、小児麻痺で死んだ子どもの脊髄をすりつぶして猿に接種し、猿が麻痺を起こすことを示した。顕微鏡で探しても細菌は見つからず、細菌を通さない濾過器を通しても病気はうつった。ポリオが細菌より小さな病原体、つまりウイルスによる病であることが、これで分かった。半世紀後のワクチン(ソークのポリオワクチン)は、この出発点の上にある。

ソークのポリオワクチンに関わる図版:Poliodrops
ソークのポリオワクチンWikimedia Commons USAID · Public domain

1911年にウィーン大学の教授になったが、第一次世界大戦の敗戦がすべてを変えた。オーストリアは窮乏し、研究所には試薬も燃料も実験動物もなくなった。1919年、51歳の彼は、オランダのハーグにある小さなカトリック病院の病理医の職を得て移った。本人がのちに生涯でいちばん暗い時期と振り返ったころで、生活のために乳製品の会社の仕事も引き受けたという。

1922年、ニューヨークのロックフェラー医学研究所に招かれた。54歳で、ここから20年を研究に費やした。取り組んだのは、それだけでは抗体を作らせないが、タンパク質に結びつくと抗原として働く小さな分子(ハプテン)の研究である。抗体が分子の形のわずかな違いを見分けることを示し、免疫を化学で語る道を開いた。

1930年、血液型の発見から29年たって、ノーベル生理学・医学賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。輸血は、このころには日常の医療になっていた。

1940年、72歳の彼は、アレクサンダー・ウィーナーらとともにRh因子を見つけた。アカゲザルの赤血球を兎に注射してできた血清が、人の赤血球の多くを固まらせたのである。これが、新生児の重い黄疸と貧血の原因を解く鍵になった。Rh陰性の母がRh陽性の子を宿すと母の体に抗体ができ、次の妊娠でその抗体が胎児の赤血球を壊す。予防の注射が確立するのは1960年代のことである。

人づきあいを好まず、ひどく寡黙で、名声を疎んじた。朝から夜まで実験台の前にいて、妻ヘレーネと息子エルンストのことはほとんど語らなかった。1930年代の終わり、アメリカのユダヤ人の人名録に「ユダヤ系」として載せられたときは、訴えを起こして削除を求めている。ヨーロッパの情勢を思えば親族の身を案じたのだろうと推測されるが、本人は理由を説明していない。

1943年6月24日、研究所の実験台で心臓の発作を起こし、2日後の26日に死んだ。75歳だった。いま、彼の誕生日の6月14日は世界献血者デーになっている。

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