できごと

アンティキティラ島の機械

Antikythera mechanism
BC2〜1世紀
年に諸説あり重要度 4
アンティキティラ島の機械に関わる図版:Antikythera Fragment A (Front)
Antikythera Fragment A (Front) Wikimedia Commons Logg Tandy · CC BY 4.0

概要

30あまりの歯車で太陽と月と惑星の位置と日食を計算する装置。沈没船から出た。同じ精密さの機械は、その後1000年以上作られていない。

場所

アンティキティラ島
35.87°N 23.30°E · ギリシア

本文

1900年、ギリシアのペロポネソス半島とクレタ島の間にあるアンティキティラ島の沖で、海綿を採る潜水夫たちが、嵐を避けて停泊したついでに海に潜り、深さ40メートルあまりの海底に古代の沈没船を見つけた。翌年にかけての引き揚げで、ブロンズの像や大理石の像、ガラスの器などが次々に引き揚げられ、アテネの国立考古学博物館に運ばれた。

その中に、腐食して緑色の塊になった青銅と木の破片があった。はじめは誰も注意を払わなかった。1902年、考古学者のスタイスが、割れた破片の中に歯車があるのに気づいた。古代の船から歯車が出るとは、誰も考えていなかった。

アンティキティラ島の機械
アンティキティラ島の機械Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Marsyas assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

沈没船は、積み荷の陶器や貨幣から、紀元前1世紀の前半、紀元前70年から60年頃に沈んだと考えられている。ギリシアの東の島々からローマへ向かって、美術品などを運んでいた船とみられる。

機械の正体がわかりはじめたのは、20世紀の半ばからである。イギリスの科学史家プライスは、放射線で破片の内部を写し、歯車の数とかみ合わせを調べて、これが天体の動きを計算する装置だと論じた。2000年代には、国際的な研究チームが、最新のCTの装置で破片の内部を細かく調べた。表面に刻まれた細かい文字も、特殊な撮影で読めるようになった。破片はいま80あまりに分かれ、確認された歯車は30ほどになる。

沈没船の引き揚げ
沈没船の引き揚げWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

研究から浮かび上がった姿は、こうである。もとは、靴箱ほどの大きさの木の箱に収められ、横の取っ手を回すと、中の歯車が回る。前の面には大きな文字盤があり、黄道の十二星座と、一年365日の暦の目盛りが刻まれていた。その上を、太陽と月の位置を示す針が回る。月の満ち欠けは、半分ずつ白と黒に塗り分けた小さな球が回ることで示された。

裏の面には、二つのらせん状の目盛りがあった。上の目盛りは、19年がほぼ235か月に等しいという周期にもとづく暦を示す。下の目盛りは、223か月ごとに日食と月食が同じような順序で繰り返すという周期にもとづき、いつ食が起きるかを示していた。どの月に、何時ごろ、どんな食が起きるかを記した文字も刻まれている。オリンピアなど、ギリシアの各地で開かれる競技会の年を示す小さな目盛りまであった(第1回オリンピア競技)。

アンティキティラ島の機械復元品。アテネ国立考古学博物館所蔵。(デレク・デ・ソーラ・プライスのモデルを元にロバート・J・デロスキが作成)
アンティキティラ島の機械復元品。アテネ国立考古学博物館所蔵。(デレク・デ・ソーラ・プライスのモデルを元にロバート・J・デロスキが作成)Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Marsyas assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

とりわけ精巧なのは、月の動きの再現である。月は、空を一定の速さで動くのではなく、速くなったり遅くなったりする。機械は、二つの歯車を少しずらして重ね、一方の歯車のピンが他方の溝の中を滑るように組むことで、この速さの変化を表していた。これは、天文学者ヒッパルコスが紀元前2世紀に唱えた月の運動の理論とよく合う。

刻まれた文字から、水星、金星、火星、木星、土星の五つの惑星の位置も示していたと考えられている。ただ、惑星を動かす部分の歯車はほとんど残っておらず、その仕組みは研究者による復元に頼っている。

デレック・デ・ソラ・プライス(1922-1983)とアンティキティラ島の機械の模型
デレック・デ・ソラ・プライス(1922-1983)とアンティキティラ島の機械の模型Wikimedia Commons Artistsmarket at English Wikipedia · Public domain

誰が、どこで作ったのかは分からない。暦に使われている月の名前は、コリントスやその植民市で使われたものとされ、シチリアのシュラクサイや、ギリシア北西部と結びつける説がある。シュラクサイといえばアルキメデスの町である。ローマの政治家キケロは、アルキメデスが作った天体の動きを示す球儀を、シュラクサイを落とした将軍マルケルスがローマに持ち帰ったと書いている(シュラクサイ攻囲とアルキメデスの死)。キケロはまた、ロドス島の哲学者ポセイドニオスも同じような装置を作ったと記している。ヒッパルコスもロドスで観測をしていた。ただ、この機械をこれらの人々と直接結びつける証拠は無い。作られた年代についても、紀元前2世紀の後半から紀元前1世紀の前半まで、説に幅がある。

確かなのは、古代ギリシアに、天文学の理論を歯車の比で表すという発想と、それを実際に作る高い技術があったということである。歯車の歯の数は、天体の周期を表すように選ばれている。

アンティキティラ島の機械の断片B(正面)
アンティキティラ島の機械の断片B(正面)Wikimedia Commons Logg Tandy · CC BY 4.0

これほど複雑な歯車の機械は、その後、長い間現れなかった。11世紀のイスラーム世界の学者アル=ビールーニーが、歯車で月の満ち欠けを示す暦の装置を書き残しているが、より簡素なものだった。同じくらい複雑な天文の歯車の装置がヨーロッパに現れるのは、14世紀の天文時計の時代になってからである。

アンティキティラ島の機械は、いまもアテネの国立考古学博物館に展示されている。たった一つ残ったこの機械が、例外だったのか、それとも同じような装置が他にもあって失われただけなのか。それも分かっていない。青銅は溶かして使い回されることが多く、海の底に沈んだからこそ、これは残ったのかもしれない。

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