フローレンス・ナイチンゲール
概要
フィレンツェ生まれの富裕な家の娘。「神の声を聞いた」。看護は下女の仕事で、家族が反対した。クリミア、スクタリの病院に38人の看護婦と。ランプ。死亡率を42%から2%に。汚水と換気を直した。戦争のあと、統計で議会を動かした。鶏頭図(円グラフの一種)。『看護覚え書』。ナイチンゲール看護学校。90歳。人生の後半はベッドの上で、手紙で世界の病院を変えた。
関わったできごと(2)
クリミア戦争AD1854年9月14日 · 病院でスクタリの野戦病院AD1854年 · 率いた本文
1820年5月12日、両親の長い新婚旅行の途中、イタリアのフィレンツェで生まれ、その町の名をとってフローレンスと名づけられた。1年前にナポリで生まれた姉は、ナポリの古い名からパーシノープと名づけられている。家はイングランド中部の裕福な地主で、ダービーシャーとハンプシャーに屋敷を持っていた。娘たちに学校へ行かせる代わりに、ケンブリッジで学んだ父が自らギリシア語、ラテン語、数学、歴史、哲学を教えた。フローレンスはとりわけ数学を好んだ。

1837年2月、16歳の彼女は、神が自分に語りかけ、奉仕の仕事を命じたと日記に書いた。それが何の仕事なのかは、まだ分からなかった。やがて、病人を看ることこそが自分の使命だと考えるようになったが、家族は激しく反対した。当時の病院の看護婦は、学もなく酒に溺れがちな女性たちの仕事と見なされていた。ディケンズの小説に出てくる、酒臭い付き添い婦ギャンプ夫人は、その典型として笑いの種になっていた。良家の娘が就く仕事ではなかったのである。求婚してきた政治家との結婚も、彼女は使命の妨げになるとして断った。
彼女は家族の目を盗んで病院や救貧院の報告書を読みあさり、1850年と翌年、ドイツのカイザースヴェルトにある、プロテスタントの女性奉仕者が病人の世話をする施設で学んだ。1853年、ロンドンの、病気の婦人のための小さな療養所の総監督となり、無給でその運営を立て直した。
1854年、クリミア戦争が始まった。秋、新聞『タイムズ』の特派員が、黒海の対岸から運ばれてくる負傷兵たちが、トルコのスクタリ(いまのユスキュダル)の病院でまともな手当ても受けられずに死んでいると報じた。フランス軍には修道女の看護がついていたのに、イギリス軍には無かった。陸軍の戦時大臣シドニー・ハーバートは彼女の旧知で、看護婦団を率いて現地へ行くよう依頼した。彼女は38人の看護婦を集め、11月4日、スクタリの兵舎を転用した病院に着いた(スクタリの野戦病院)。翌日には、インケルマンの戦いの負傷者が運び込まれてきた。

病院の中は地獄だった。病室の床下を下水が流れ、便器はあふれ、ネズミとシラミがはびこり、寝台も毛布も足りずに兵士は床に寝かされていた。軍医たちは、女の口出しを嫌った。彼女はまず、許可なしには病室に入らせない軍医たちに従い、黙って待った。負傷者が増えて軍医の手が回らなくなると、『タイムズ』が集めた基金を使って、ブラシ、石鹸、シャツ、シーツ、食器を買い入れ、洗濯場と調理場を整え、まともな食事を出させた。夜には自らランプを手に、何キロにもなる病室の列を見回った。新聞は彼女を「ランプを持った貴婦人」と書き、兵士たちは彼女の影が枕に落ちるとそれに口づけした、とアメリカの詩人ロングフェローは詠んだ。
それでも、冬のあいだ病院の死亡率は下がらず、1855年2月には入院した兵士の4割を超える人が死んだ。死因の大半は戦いの傷ではなく、赤痢やコレラ、チフスなどの感染症だった。3月、本国から衛生委員会が送り込まれ、下水を掃除し、換気を改め、汚れた水の供給を断った。すると死亡率は急に下がり、初夏には2パーセント前後になった。後に統計を調べ直したナイチンゲール自身、死者の多くを生んだのは病院の不衛生そのものだったと悟り、深い衝撃を受けたとされる。

1856年、戦争が終わると、彼女は国民的な英雄として迎えられることを避け、偽名を使ってひっそりと帰国した。だが、ここからが本当の仕事だった。戦地でかかった病(ブルセラ症だったと考えられている)のため、彼女はその後の人生の大半を寝室で過ごすことになる。それでもベッドの上から、政府の高官や軍人、学者に何千通もの手紙を書き、陸軍の衛生を改めるための王立委員会を動かした。統計学者ファーと組んで兵士の死因を分析し、月ごとの死者の数を死因別に扇形の面積で示した図を作った。「鶏のとさか」とも呼ばれるこの図は、数字の表に目を通さない政治家にも、どれほど多くの兵が防げたはずの病で死んだかを一目で分からせた。1858年、彼女は王立統計協会の初めての女性会員となった。
1859年に出した『看護覚え書』は、新鮮な空気、光、清潔、静けさ、食事といった、病人の回復を助ける環境を整えることが看護の基本だと説き、家庭で病人を看る女性たちにも広く読まれた。1860年には、戦争中に寄せられた募金をもとに、ロンドンの聖トマス病院にナイチンゲール看護学校が開かれた。看護は、訓練を受けた女性が就く専門の職業となり、その卒業生たちはイギリス各地や海外の病院で看護の改革を担った。彼女は一度も行ったことのないインドについても、統計をもとに、兵舎と村の衛生の改善を政府に迫り続けた。手洗いと消毒の大切さがイグナーツ・ゼンメルワイスやジョゼフ・リスターによって説かれていった時代に、彼女は病院と兵舎そのものを清潔にすることで、命を救おうとしたのである。

1907年、女性として初めてメリット勲章を受けた。1910年8月13日、ロンドンの自宅で眠るように亡くなった。90歳だった。ウェストミンスター寺院への埋葬の申し出を遺族は断り、ハンプシャーの村の教会の家族の墓に葬られた。墓碑には「F.N. 1820-1910」とだけ刻まれている。彼女の誕生日の5月12日は国際看護師の日とされ、赤十字を創ったデュナンも、クリミアでの彼女の働きに励まされたと語っている(『ソルフェリーノの思い出』)。赤十字はいまも、優れた看護師に彼女の名を冠した記章を贈っている。ランプを持った優しい天使という像は、彼女の一面にすぎない。実際の彼女は、数字と粘り強い手紙で国の制度を変えた、鋭い頭脳の改革者だった。