メートル条約
概要
フランス一国の制度を、国際の制度にする。十七か国が署名し、常設の機関として国際度量衡局をパリ郊外セーヴルに置いた。1889年、白金九割・イリジウム一割の合金で、たわみに強いX字の断面を持つ国際メートル原器と国際キログラム原器が作られ、複製が各国に配られた。日本は1885年に加入し、原器を受け取った。度量衡が、条約で管理される対象になった最初である。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
メートル法は、もともとフランスの法律だった。革命のさなかに地球の大きさから長さの単位を決めた(メートル法の制定)のはフランスであり、基準となる白金の棒も、パリの国立文書館の金庫にしまわれていた。フランス議会が変えようと思えば変えられる。ほかの国がそれを使うということは、フランスの決めたことに従うということでもあった。イギリスにはヤードがあり、プロイセンにもロシアにもそれぞれの単位がある。メートル法の便利さは知られていても、これが普及を妨げていた。
一方で、単位をそろえる必要は年ごとに増していた。1850年代から国境を越える電信網が広がり、電気の量を表す単位を各国で合わせなければならなくなった(国際電信連合の設立)。1851年のロンドン、1855年と1867年のパリで開かれた万国博覧会(ロンドン万国博覧会)では、各国の機械や産品が並んだが、寸法も重さも単位がばらばらで比べられなかった。さらに、ヨーロッパの測地学者が共同で地球の形を測ろうとすると、各国の基線がそれぞれの単位で測られていて、換算の係数そのものが確かでないことが問題になった。

フランス政府は1869年、各国に国際的な委員会を呼びかけた。最初の会合は1870年8月に開かれたが、その前の月に普仏戦争が始まっていて、多くの国の代表は来られなかった。パリは包囲され、議論は中断した。委員会が本格的に集まったのは1872年である。ここで、パリの古い原器を写した新しい原器を作り、それを一国の持ち物ではなく、国際的な管理に置くという方針が固まった。
1875年5月20日、パリで十七か国がメートル条約に署名した。フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、ブラジル、アルゼンチン、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、イタリア、ペルー、ポルトガル、ロシア、スウェーデン=ノルウェー、スイス、オスマン帝国、ベネズエラである。イギリスは署名せず、1884年に加わった。日本は1885年に加入した。

条約は三つの機関を作った。加盟国の代表が集まって単位の定義を決める国際度量衡総会、その下で実務を見る国際度量衡委員会、そして常設の研究所として国際度量衡局である。局はパリ郊外セーヴルのブルトゥイユ館に置かれた。フランスが土地と建物を出したが、その敷地には国際的な地位が与えられた。原器を一国の手から離すための取り決めである。
原器そのものも作り直された。材料は白金九割・イリジウム一割の合金である。純粋な白金では柔らかすぎ、イリジウムを混ぜると硬くなり、錆びず、熱による伸び縮みも小さい。メートル原器の断面は、技師アンリ・トレスカが考えたX字の形をしている。同じ重さで最もたわみにくい形で、棒を支える位置まで決められた。長さは棒の端から端ではなく、中ほどに刻まれた二本の線の間で定義された。端は使ううちに削れるからである。

1889年の第1回国際度量衡総会で、国際メートル原器と国際キログラム原器が承認された。同じ合金で作った三十本ほどの複製は、くじで加盟国に配られた。日本には翌1890年、22番のメートル原器と6番のキログラム原器が届いた。キログラム原器は直径も高さも約39ミリの円柱で、セーヴルでは三重のガラスの鐘をかぶせて金庫に収められた。鍵は三つあり、三人がそろわなければ開けられない。百三十年のあいだに外へ出されたのは、各国の複製と比べるための数回だけである。
その後、メートルは原器を離れた。1960年にはクリプトン86という原子の出す光の波長で、1983年には光が真空中を進む速さで定義し直された。国際メートル原器は役目を終え、いまはセーヴルに歴史の品として残る。質量には光の速さのような都合のよい自然の定数が見つからず、キログラムだけが金属の塊に頼り続けた。それが改められるのは2019年である(キログラムの再定義)。

いまの加盟国は六十あまりにのぼる。国際度量衡局は、単位の定義を保ち、各国の標準器を比べ、ある国で校正された測定器の結果を別の国が認める仕組みを支えている。「1キログラム」がどこでも同じであることは、自然にそうなっているのではない。そのために条約があり、機関があり、比べる作業がいまも絶えず続けられている。度量衡が国どうしの約束で管理されるようになったのは、この条約が最初である。