できごと

フィボナッチ『算盤の書』

Liber Abaci
AD1202年
重要度 5
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグの遊牧諸部族クマン(キプチャク)ベルベル諸部族アイユーブ朝キエフ・ルーシブワイフ朝ファーティマ朝神聖ローマ帝国サーミそのほかのルーシ諸公国ノルウェーイファト王国ヴォルガ・ブルガールムワッヒド朝東ローマ帝国ノヴゴロド公国マクリアウラジーミル・スーズダリ公国ルーム・セルジューク朝ポーランド王国スウェーデンブルガール可汗国アンジュー帝国ハンガリー王国ガーリチ=ヴォルィーニ公国ハドラマウトアルメニアケルト系の諸王国キーウ公国IbaditesComté de ToulouseデンマークLeónブルゴーニュポルトガルスコットランドフランス王国ジョージアDutchy of BeneventoAD1202年ピサ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1202年の版図を描いています(40勢力)。

概要

ピサの商人の子レオナルドは、父の任地である北アフリカのブジーで、アラビアの数字と計算法を学んだ。帰国して書いたこの本は、9つの数字と「ゼフィルム」(ゼロ)による筆算を、ヨーロッパの商人に教えるためのものだった。利息、両替、比例配分、そして有名なうさぎの問題(各項が前の二項の和になる数列)。ローマ数字とそろばんに代わって、紙の上で計算する方法が広まった。フィレンツェは1299年、帳簿での新数字の使用を一度は禁じている。

場所

ピサ
43.72°N 10.40°E · イタリア

関わった人(1)

レオナルド・フィボナッチAD1170年頃–AD1250年頃 · 書いた

本文

十二世紀のヨーロッパで、数を書くといえばローマ数字だった。I、V、X、L、C、D、M。1947年はMCMXLVIIと書く。この書き方では、紙の上で筆算をすることができない。位取りがなく、桁をそろえて足したり掛けたりできないからである。だから実際の計算は、「アバクス」と呼ばれる計算盤の上で行った。線を引いた板や机の上に小石や駒を置き、それを動かして計算する。答えが出たら、それをローマ数字で帳面に書き留める。

計算は、専門の技能だった。足し算と引き算ならともかく、掛け算や割り算、まして利息や両替の計算となると、誰にでもできるものではない。商人たちは、計算盤を巧みに扱う者を雇うか、自分で長い修練を積むしかなかった。

フィレンツェ国立図書館所蔵のフィボナッチ『算盤の書』の頁。フィボナッチ数列をラテン数字とローマ数字で示す
フィレンツェ国立図書館所蔵のフィボナッチ『算盤の書』の頁。フィボナッチ数列をラテン数字とローマ数字で示すWikimedia Commons Public domain

その頃、地中海の南、イスラーム世界では、まったく違う数の書き方が使われていた。インドで生まれた、0から9までの十の記号で、どんな大きな数も位取りで書き表すやり方である。インドの数学者たちは、何もないことを表す記号ゼロを数として扱う考えを育て(ブラーマグプタのゼロ)、九世紀のバグダードでは、フワーリズミーがこの数字を使った計算の方法を書物にまとめていた(フワーリズミー)。

この数字をヨーロッパに広めたのが、イタリアの港町ピサの商人の子レオナルド(1170年頃〜1250年頃)である(レオナルド・フィボナッチ)。父のグリエルモは、北アフリカの港町ブジー(いまのアルジェリアのベジャイア)に置かれたピサ商人の交易所で、役人として働いていた。少年のレオナルドは父に呼ばれてブジーへ渡り、そこで算術を学んだ。彼は後に、こう書いている。父は私の将来のためを思って、私をしばらく算術の学校に通わせた。そこで私は、インドの九つの数字による見事な技を教えられ、その知識に何よりも心を奪われた、と。

レオナルド・フィボナッチの肖像
レオナルド・フィボナッチWikimedia Commons Original uploader was Deep also it at it.wikipedia · Public domain

その後、彼は商いの旅を続けながら、エジプト、シリア、ギリシア、シチリア、南フランスの各地で、さまざまな計算の方法を学び比べた。そして、インドの数字による計算が、ほかのどのやり方よりも優れていると確信した。

1202年、ピサに戻ったレオナルドは、一冊の大きな本を書き上げた。『算盤の書』(リベル・アバチ)である。題に「算盤」とあるが、中身は計算盤を使わずに、紙の上で数字を書いて計算する方法を教える本だった。全十五章からなり、のちに1228年に改訂されている。いま伝わっているのは、この改訂版である。

ピサの斜塔
ピサの斜塔Wikimedia Commons Pcs34560 from jawp This photo was taken with Canon PowerShot G9 · Public domain

本は、こう書き出される。九つのインドの数字は、9、8、7、6、5、4、3、2、1である。この九つの数字と、アラビア人がゼフィルムと呼ぶ0という記号を使えば、どんな数でも書き表すことができる、と。「ゼフィルム」は、アラビア語で「空」を意味する言葉に由来する。この言葉が、のちにイタリア語を経て「ゼロ」になり、また別の道をたどって、英語で暗号や数字を意味する言葉にもなった。

本の前半では、数字の書き方と、足し算、引き算、掛け算、割り算のやり方が丁寧に説明される。中ほどの章は、商人の実務の計算に当てられている。品物の値段の計算、度量衡の換算、通貨の両替、利息、金属を混ぜて合金を作るときの割合、出資者どうしの利益の分配。地中海の町々ではそれぞれ違う通貨や単位が使われていたから、それらを換算する計算は、商人にとって欠かせないものだった。終わりの章では、平方根や幾何、代数の問題も扱っている。

ミラコリ広場にあるカンポサント
ミラコリ広場にあるカンポサントWikimedia Commons Jean-Christophe BENOIST · CC BY 2.5

この本の第十二章に、のちに有名になる一つの問題がある。囲いの中に、一つがいのウサギを入れる。ウサギは生まれて二か月目から、毎月一つがいの子を産む。一年後には、ウサギは何つがいになるか。月ごとのつがいの数を並べると、1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144、233となる。どの数も、その前の二つの数を足したものになっている。

十九世紀、フランスの数学者リュカは、この数の並びに「フィボナッチ数列」という名を付けた。隣り合う二つの数の比は、先へ進むほど黄金比と呼ばれる値(およそ1.618)に近づいていく。この数列は、植物の葉の付き方や、ひまわりの種の並び方の中に現れることでも知られる。ただし、自然の中のあらゆる螺旋をこの数列で説明する話には、誇張された当てはめも多い。またレオナルド自身は、この問題を数ある練習問題の一つとして載せただけで、特に重んじてはいなかった。同じ数の並びは、それより前に、インドの詩の韻律を数える学問の中で知られていた。

新しい数字は、すぐには広まらなかった。計算盤を扱う人々にとっては、自分たちの技能の値打ちを下げるものだった。そして、新しい数字には書き換えられやすいという欠点があった。0は少し書き足せば6や9に、1は7に変えられる。帳簿の数字を書き換える不正を恐れて、1299年、フィレンツェの両替商の組合は、帳簿にこの数字を使うことを禁じ、数はローマ数字か文字で書くように定めた。

それでも、実務の便利さが勝った。十四世紀になると、イタリアの商業都市には、「算盤学校」と呼ばれる計算の学校が数多く生まれ、商人の子どもたちが新しい数字による計算を学んだ。そこで使われた教科書は、レオナルドの本の流れをくむものだった。のちに大芸術家となるレオナルド・ダ・ヴィンチも、少年時代にこうした学校で学んだとされる。1494年には、修道士の数学者ルカ・パチョーリが、商人の帳簿の付け方である複式簿記を、初めて印刷された本で説明した(複式簿記の刊行)。そこでも、この数字が使われている。

レオナルドの名声は、生前から高かった。1225年ごろには、学問を好んだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の宮廷に招かれ、宮廷の学者が出した難問を解いてみせたと伝えられる。皇帝は、鷹狩りの書物を自ら著すほど学問に通じた人物だった(『鷹狩りの技術』)。1240年には、ピサの町が、市の会計に助言をしてきた学識ある人として、彼に毎年の手当を贈ることを決めている。その後の消息は分からず、亡くなった年も分かっていない。

「フィボナッチ」という呼び名は、「ボナッチの息子」を意味するラテン語の言い回しから来たもので、彼自身が使っていた名ではない。十九世紀の数学史家たちが広めた呼び名である。いま世界中の人々が使っている0から9の数字は、インドで生まれ、イスラーム世界で磨かれ、このピサの商人の子の本を通って、ヨーロッパの帳場へ入っていった。

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