概要
モスクワの商人の家。父は農村の出で、飢えを見て育った人物である。息子は、飢饉をなくすことを生涯の目標にした。ロンドンでベイトソンに学び、遺伝学を身につけた。1920年、相同系列の法則を発表。1920〜30年代、64か国を回って種を集め、レニングラードに世界最大の種子集積を築いた。ルイセンコが遺伝学を否定し、スターリンがそれを支持した。1940年、ウクライナでの採集中に逮捕。9か月の尋問、400回以上。1943年、サラトフの獄中で、栄養失調により死んだ。
関わったできごと(1)
ヴァヴィロフと起源の中心AD1926年 · 集めた本文
**ニコライ・イワノヴィチ・ヴァヴィロフ**(1887〜1943年)。
**モスクワの、商人の家に生まれた**。
(父は、農村の出で、商人になった。
——**父は、飢饉を見て育った**。そのことを、繰り返し語ったという。)
**弟のセルゲイは、物理学者**である。
(——のちに、**ソ連科学アカデミー総裁**になる。
〈兄が獄死したあとに。〉)
**学んだ**。
モスクワ農業大学(現・ティミリャーゼフ農業アカデミー)。
そして、**1913年から14年、イギリス**。
**ウィリアム・ベイトソン**——「遺伝学」(genetics)という語を作った人物——のもとで学んだ。
(——**メンデルの再発見の、直後の時代である**。
そして、彼は、**ダーウィンの家**を訪ねた。)
**問い**。
**栽培植物は、どこで生まれたか**。
(**小麦は。米は。とうもろこしは。じゃがいもは**。
——**どこの、誰が、いつ、野生の草を、作物にしたのか**。)
**方法**。
**(1)集める**。
**1916年から1940年まで、約20年間**。
**64か国**を、旅した。
(**イラン、パミール、アフガニスタン、エチオピア、エリトリア、アルジェリア、モロッコ、シリア、パレスチナ、スペイン、ギリシア、キプロス、朝鮮、日本、台湾、中国、アメリカ、メキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、コロンビア、ペルー、ボリビア、チリ、ブラジル、アルゼンチン**……
——**危険な旅である**。
〈**1916年、パミール**。ロシア革命の前年。
彼は、**アフガニスタン国境の、閉ざされた谷**に入った。
そこに、**外の世界と混じっていない、古い品種**があった。
〈のちに、彼が「**孤立した山地に、多様性が残る**」という主張をしたのは、この経験による。〉
**1927年、エチオピア**。
——彼は、**ラクダの隊商**で、**皇帝ハイレ・セラシエ**の許可を得て、内陸へ入った。
**エチオピアが、小麦と大麦の、驚くべき多様性の中心である**ことを、確認した。
〈**そこには、他のどこにもない形の小麦があった**。〉〉)
**集めた数——約25万点**。
(**世界最大の、種子の収集**である。
——当時、**アメリカの収集より、大きかった**。)
**(2)数える**。
**彼は、ただ集めたのではない**。
**集めた場所ごとに、どれだけ多様か**を、数えた。
**そして——多様性が、極端に集中している場所がある**ことを、見出した。
**起源の中心**(centers of origin)。
(——**その作物が、最初に栽培化された場所には、最も多くの変異が残っている**。
**なぜか**。
**そこで、最も長い時間、選抜されてきたから**である。
そして、**そこには、野生の近縁種もいる**。
〈**この考え方は、いまも、基本的に生きている**。
——ただし、**細部は修正された**。
**「中心」は、彼が考えたほど、明瞭ではない**。栽培化が、広い範囲で、何度も、独立に起きた作物がある(**多元的な起源**)。
そして、**ヴァヴィロフが「中心」とした場所の一部は、実は「多様性の中心」であって「起源の中心」ではない**(伝播した先で、多様化した)。
——**エチオピアの小麦が、その例である**。〉)
**8つの中心**を、彼は挙げた(数は、著作によって変動する)。
**中国、インド(および東南アジア)、中央アジア、近東、地中海、エチオピア、メキシコ・中央アメリカ、南アメリカ(アンデス)**。
**目的**。
**彼は、純粋な学問のために、これをしたのではない**。
**ソ連の農業を、作り直すためである**。
(——**1891〜92年、ロシアの大飢饉**。彼は、5歳だった。
そして、**1921年、ヴォルガの飢饉**。数百万人が死んだ。
**彼は、飢餓を、なくすつもりだった**。
〈**「わたしは、この地上から、飢えを追い払うために働いている」**という趣旨のことを、繰り返し書いた。〉)
**方法は、育種である**。
(**野生種と在来種の中から、耐寒性、耐乾性、耐病性の遺伝子を見つけ、掛け合わせる**。
——**時間がかかる**。10年、20年。
**そして、レーニンとスターリンは、それを待たなかった**。)
**リセンコ**。
**トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ**(1898〜1976年)。
**ウクライナの農民の出**。
(——**学歴が、乏しい**。それが、当時、**むしろ強みだった**。
「**裸足の教授**」。プロレタリアートの科学者。)
**彼の主張**。
**(1)春化処理**(vernalization)。
(**冬小麦の種子を、湿らせて、低温にさらすと、春に蒔いても穂が出る**。
——**これ自体は、実在する現象である**(現在も、農業と園芸で使われる)。
**リセンコは、これを発見したわけではない**(19世紀から知られていた)。
**しかし、彼は、これを大々的に宣伝した**。)
**(2)そして、その先**。
**獲得形質は、遺伝する**。
(——**環境によって変えられた性質が、次の世代に伝わる**。
**つまり、ラマルクである**。
**遺伝子は、存在しない**。「**メンデル主義・モルガン主義**」は、ブルジョワの、形而上学的な、反動的な疑似科学である。)
**(3)なぜ、これが受け入れられたか**。
**イデオロギーに、合っていた**。
(**もし、環境が生物を変えられるなら——**
**社会主義の環境は、新しい人間を作れる**。
——**遺伝子が運命を決めるという考えは、階級社会の弁護に見えた**。)
**そして——速い**。
(**育種は、10年かかる**。
**リセンコは、「来年、収量が上がる」と言った**。
〈**そして、上がらなかった**。しかし、彼は、**都合の悪い数字を、報告しなかった**。
そして、**現場の農場は、報告を偽った**。〉)
**衝突**。
**1930年代を通じて**。
**当初、ヴァヴィロフは、リセンコを支持した**。
(——**若い、現場から出た研究者**として。
**春化の研究を、評価した**。
〈**彼が、リセンコを推薦し、地位を与えるのを助けた**。〉)
**しかし、リセンコの主張が、遺伝学そのものの否定に及んだとき、ヴァヴィロフは、反対した**。
**1939年**、会議で。
**「わたしたちは、火刑台に行く。焼かれる。しかし、自分の信念を捨てることはない」**。
(——この趣旨の発言が、伝えられている。)
**そして、リセンコは、スターリンの支持を得た**。
(**1935年**、リセンコが演説した会議で、**スターリンが立ち上がって、「ブラボー、リセンコ同志、ブラボー」と言った**、と記録されている。
——**それで、決まった**。)
**逮捕**。
**1940年8月6日**。
**西ウクライナ(当時ソ連が占領したばかりの地域)で、採集の遠征中**。
**車が止められ、連行された**。
(——**同行者には、「モスクワから至急の電話だ」と告げられた**。
**そのまま、消えた**。)
**取り調べ——1,700時間以上**、400回を超える尋問。
(**拷問があった**、と記録されている。
**罪状——スパイ活動、破壊活動、右翼陰謀組織への参加**。)
**1941年7月9日**、**銃殺刑の判決**。
**減刑され、20年の懲役**になった。
**サラトフの、監獄**。
**1943年1月26日、死亡**。
**死因——栄養失調による衰弱**(診断書は「肺炎」)。
**55歳**。
(——**世界最大の種子の収集を作った男が、飢えて死んだ**。
**そして、その同じ月、彼の種子を守った職員たちが、レニングラードで飢え死にしていた**。)
**埋葬**——**サラトフの、共同墓地**。
**正確な場所は、分からない**。
(——現在、**サラトフに、彼の記念碑がある**。**遺骨の場所は、特定されていない**。)
**その後**。
**1948年**、**ソ連科学アカデミー農業部会**。
**リセンコが、遺伝学を、正式に禁じさせた**。
(——**「メンデル・モルガン主義」の研究と教育が、禁止された**。
**教科書が、書き換えられた**。
**数千人の研究者が、職を失った**。
そして、**投獄され、死んだ者がいる**。)
**そして、農業は**。
(——**改善しなかった**。
**リセンコの方法(「密植」「クラスター植え」「土のホルモンによる処理」など)は、失敗した**。
**ソ連の農業の停滞と、1963年の不作**が、彼の失脚の一因になった。)
**中国**。
**リセンコ主義が、そのまま輸入された**。
そして、**大躍進の農法**(密植、深耕)の理論的な支えの一部になった。
(——**1959〜61年の大飢饉**。
**推定 1,500万人から4,500万人**が、死んだ。
〈もちろん、**リセンコだけが原因ではない**。しかし、**要因の一つ**として、指摘されている。〉)
**失脚**。
**1953年、スターリンの死**。
**1964年、フルシチョフの失脚**の後、リセンコは、権威を失った。
(**1965年**、遺伝学が、復権した。
**1976年**、リセンコ死去。ソ連の新聞は、その死を報じなかった。)
**名誉回復**。
**1955年**、ヴァヴィロフの有罪判決が、取り消された。
**1965年**、彼の名が、研究所に戻された。
**現在——N・I・ヴァヴィロフ記念全ロシア植物遺伝資源研究所**。
**サンクトペテルブルク、イサク広場**。
**そして**。
**彼が集めた種は、いまも、世界中の畑にある**。
(**現在、育種に使われている遺伝資源の相当部分が、彼の収集に由来する**。
——**そして、スヴァールバルにも、その複製がある**。)
**残された言葉**。
**「わたしは、自分の信念を捨てない」**。
そして、獄中で、彼は、**同房者に、農業と遺伝学の講義をした**、と伝えられている。