人物

ニコライ・ヴァヴィロフ

Nikolai Vavilov
AD1887年11月25日 – AD1943年1月26日(享年55)
ソビエト連邦重要度 5

概要

モスクワの商人の家。父は農村の出で、飢えを見て育った人物である。息子は、飢饉をなくすことを生涯の目標にした。ロンドンでベイトソンに学び、遺伝学を身につけた。1920年、相同系列の法則を発表。1920〜30年代、64か国を回って種を集め、レニングラードに世界最大の種子集積を築いた。ルイセンコが遺伝学を否定し、スターリンがそれを支持した。1940年、ウクライナでの採集中に逮捕。9か月の尋問、400回以上。1943年、サラトフの獄中で、栄養失調により死んだ。

関わったできごと(1)

ヴァヴィロフと起源の中心AD1926年 · 集めた

本文

ニコライ・イワノヴィチ・ヴァヴィロフは1887年11月25日、モスクワの商人の家に生まれた。父イワンは農村の出で、身を起こして商人になった人である。父は子どものころ飢えを見て育ち、そのことをくり返し語ったという。ニコライがまだ幼かった1891年から翌年にかけても、ロシアは大飢饉に見舞われた。人々を飢えから救うことが、彼の生涯の目標になった。弟のセルゲイは物理学者になり、のちにソ連科学アカデミーの総裁を務める。兄が獄中で死んだあとのことである。

ニコライ・ヴァヴィロフの肖像
ニコライ・ヴァヴィロフの肖像Wikimedia Commons World Telegram staff photographer · Public domain

彼はモスクワの農業大学で学び、1913年から翌年にかけてイギリスへ渡って、遺伝学という言葉を作ったウィリアム・ベイトソンのもとで学んだ。メンデルのエンドウの論文が20世紀の初めに再発見されてから、まだ十数年しかたっていない時代だった。帰国した彼は、遺伝学を農業に生かす道を歩み始める。

彼が追った問いは、作物はどこで生まれたのか、ということだった。小麦も、米も、トウモロコシも、ジャガイモも、もとは野の草である。いつ、どこで、誰がそれを作物にしたのか。彼の方法は、まず集めることだった。1916年から1940年までのおよそ四半世紀に、彼は64の国を旅して種を集めた。イラン、アフガニスタン、エチオピア、地中海の国々、中国、日本、朝鮮、南北アメリカの各地。

生誕100年を記念したソ連切手(1987年)
生誕100年を記念したソ連切手(1987年)Wikimedia Commons ЦФА · Public domain

旅はしばしば命がけだった。1916年、革命の前の年に、彼は中央アジアのパミールの山中に入り、外の世界とほとんど交わらずに残ってきた古い品種を見つけた。孤立した山地にこそ多様な品種が残る、という彼の考えはこの経験から生まれた。1927年にはエチオピアに入り、摂政で、のちの皇帝ハイレ・セラシエ1世の許しを得て、隊商とともに内陸を旅した。そこには、ほかのどこにもない形の小麦や大麦が驚くほどたくさんあった。

彼は、ただ集めたのではなく、集めた土地ごとに品種がどれほど多様かを数えた。すると、多様さが極端に集中している場所がいくつもあることが分かった。作物が最初に作られた土地では、最も長いあいだ選び続けられてきたので、最も多くの変異が残っているはずだ。そこには野生の仲間の植物も生えている。彼は、中国、インド、中央アジア、西アジア、地中海、エチオピア、メキシコと中央アメリカ、南アメリカのアンデスなど、作物の起源の中心をいくつも挙げた。1920年には、近い仲間の植物どうしでは、同じような変異が並んで現れるという「相同系列の法則」も発表した。元素の周期表になぞらえられたこの法則は、まだ見つかっていない品種がどこかにあるはずだと予測する手がかりになった。

ヴァヴィロフが1924年に示した作物起源地の図。中国、インド、中央アジア、小アジア、地中海、アビシニア、中南米を挙げた
ヴァヴィロフが1924年に示した作物起源地の図。中国、インド、中央アジア、小アジア、地中海、アビシニア、中南米を挙げたWikimedia Commons Redwoodseed · CC BY 3.0

起源の中心という考えは、いまも基本的に生きている。ただし細部は直された。作物によっては、広い範囲でいくども別々に栽培が始まっていた。また、彼が起源の中心とした土地の中には、作物が伝わった先で多様になった「多様性の中心」にすぎない場所もある。エチオピアの小麦はその例である。

彼は眠る時間を惜しんで働き、一日に数時間しか眠らないと周りを驚かせた。旅先でも夜中まで標本を整理し、手紙を書いた。彼の目的は、純粋な学問ではなかった。1921年、ヴォルガ川の流域で起きた飢饉では、数百万人が死んだ。寒さや乾きや病気に強い性質を持つ品種を世界中から集め、かけ合わせて、ソ連の厳しい土地でも実る作物を作る。そのためには10年、20年の時間がかかる。彼は、レニングラードの研究所に、当時世界最大の種の集積を築き上げた。研究所はソ連全土に数百の試験場を持ち、集めた品種を寒い北から乾いた南まで、さまざまな土地で育てて比べた。1921年には革命後のソ連の科学者として早い時期にアメリカを訪れ、各地の研究者と親しくなった。1929年には科学アカデミーの会員に選ばれ、新しく作られた全連邦農業科学アカデミーの初代総裁になった。世界の植物学者のあいだで、彼は最もよく知られたソ連の科学者の一人だった。集めた種や苗はおよそ25万点にのぼったとされる。

だが国家の指導者たちは、そんなに待てなかった。1930年代、農業の集団化で農村は混乱し、ホロドモールをはじめとする飢饉が再び人々を襲っていた。そこに現れたのが、ウクライナの農民出身の農学者トロフィム・ルイセンコである。学歴の乏しい「はだしの教授」は、労働者の科学者としてもてはやされた。彼は、湿らせた種を冷やしておくと、秋にまくはずの小麦を春にまいても穂が出る「春化処理」を大々的に宣伝した。現象そのものは以前から知られていたが、ルイセンコはさらに進んで、環境によって変えられた性質はそのまま子に伝わる、遺伝子などというものは存在しない、と唱えた。メンデルの遺伝学は、ブルジョワの反動的なえせ科学だというのである。

ホロドモールに関わる図版:HolodomorKharkiv 1933 Wienerberger
ホロドモールWikimedia Commons Alexander Wienerberger · Public domain

この主張は、体制の考えに合っていた。環境が生き物を変えられるなら、社会主義の環境は新しい人間を作れる。遺伝子が運命を決めるという考えは、階級の社会を弁護するものに見えた。そして何より、ルイセンコは早かった。来年には収穫が増えると約束した。増えなくても、都合の悪い数字は報告されなかった。1935年、ルイセンコが演説した会議で、ヨシフ・スターリンが立ち上がり、ブラボー、ルイセンコ同志、と声をかけたと記録されている。

皮肉なことに、初めはヴァヴィロフもこの若い研究者を励まし、地位を得るのを助けていた。だがルイセンコの主張が遺伝学そのものの否定に及ぶと、彼は反対に回った。1939年の会議では、私たちは火刑台に行き、焼かれるだろう、だが信念は捨てない、という趣旨の言葉を口にしたと伝えられる。

ヴァヴィロフの獄中写真(1942年)
ヴァヴィロフの獄中写真(1942年)Wikimedia Commons The People's Commissariat for Internal Affairs (Народный комиссариат внутренних дел), abbreviated NKVD (НКВД) · Public domain

1939年、エディンバラで開かれた国際遺伝学会議は、彼を会長に選んでいた。だがソ連政府は出国を許さなかった。開会の式では、会長の席が空けられたままだったという。

1940年8月6日、ソ連が占領したばかりの西ウクライナで、種を集める旅の途中、彼は連れ去られた。同行者たちには、モスクワから急ぎの電話が入ったと告げられ、彼はそのまま消えた。それから400回を超える尋問が、延べ1700時間あまり続いた。罪状はスパイ、農業の破壊、反政府の陰謀だった。1941年7月、銃殺の判決が下り、のちに20年の懲役に減らされた。彼はヴォルガ川沿いの町サラトフの監獄に移された。獄中でも、同じ房の者たちに農業や生物学の講義をしたと伝えられる。1942年、何も知らないイギリスの王立協会は、彼を外国人の会員に選んでいる。家族には、彼がどこでどうしているのかさえ知らされなかった。

ヴァヴィロフの研究室にあるトウモロコシの多様な品種
ヴァヴィロフの研究室にあるトウモロコシの多様な品種Wikimedia Commons Luigi Guarino from Suva, Fiji · CC BY 2.0

1943年1月26日、ヴァヴィロフはサラトフの監獄で、飢えによる衰弱のため死んだ。55歳だった。人類を飢えから救おうとした男が、飢えて死んだ。その死が外の世界に知られるまでには、さらに何年もかかった。遺体は共同の墓に葬られ、正確な場所はいまも分からない。

同じころ、ドイツ軍に包囲されたレニングラード(レニングラード包囲)では、彼の研究所の職員たちが、集められた種と苗を守り続けていた。食べ物の尽きた町で、目の前に何トンもの穀物やジャガイモがありながら、彼らはそれに手をつけず、何人もが飢え死にした(包囲下の種子)。米の種を受け持っていた職員の一人は、何千袋もの米に囲まれた机で、飢えて息絶えていたと伝えられる。戦争のあとの畑のために、種は残された。

レニングラード包囲に関わる図版:Anti aircraft Leningrad 1941
レニングラード包囲Wikimedia Commons Boris Kudoyarov · Public domain

1948年、ルイセンコは科学アカデミーの会議で遺伝学を公式に追放させた。研究と教育は禁じられ、教科書は書き換えられ、数千人の研究者が職を失った。だが農業は良くならなかった。ルイセンコ流の方法は中国にも持ち込まれ、大躍進の、種を密に植え土を深く耕せば収穫が増えるという農法を支える理屈の一つになった。もちろんそれだけが原因ではないが、続く大飢饉では数千万人が死んだと推計されている。スターリンの死後、ルイセンコの権威はしだいに揺らぎ、1960年代半ばに失脚した。遺伝学がソ連で復権したのはそのあとである。

ヴァヴィロフの有罪判決は、1955年に取り消された。いまサンクトペテルブルクの研究所は彼の名を冠し、彼の集めた種を守り続けている。世界の畑で使われる品種の改良には、彼の集めた種に由来するものも多い。種を失わないために世界中の種を北極圏の島に預けるスヴァールバル世界種子貯蔵庫も、彼が始めた、種を集めて未来の飢えに備えるという仕事の延長線上にある。

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