ピエール・メシャン
概要
ラン生まれ。建築家の子で、家が傾き、測量と天文の助手になった。彗星を十三個見つけている。メートルを定めるための子午線測量では、南半分のロデーからバルセロナを受け持った。革命下、スパイと疑われて捕らえられ、事故で重傷を負い、戦争で帰国できずに三年足止めされた。バルセロナで測った緯度が二組の値で食い違うことに気づき、それを公表しないまま生涯苦にした。1803年、測量をやり直すために出発し、翌年スペインで黄熱病により死んだ。
関わったできごと(1)
メートル法の制定AD1795年4月7日 · 測量本文
ピエール=フランソワ=アンドレ・メシャンは1744年8月16日、フランス北部の町ランに生まれた。父は建築にたずさわる職人で、息子を学校にやるだけの余裕があった。ところが家運が傾き、彼は学業を続けられなくなった。

彼は独学で数学と天文学を学び、当時のフランス天文学の中心にいたジェローム・ラランドに自分の計算を見せた。ラランドはこの若者を認め、海軍の海図を作る部局の助手の職を世話した。測量と天体の観測が、彼の仕事になった。
1780年前後から、メシャンはいくつもの彗星を見つけた。当時、彗星の発見は天文学者が名を上げるいちばん分かりやすい道だった。「彗星の狩人」と呼ばれたシャルル・メシエとは、競い合いながら協力した。メシエが作った、彗星とまぎらわしいが彗星ではないぼんやりした天体の一覧には、メシャンの見つけた天体がいくつも入っている。いまM63、M77、M94、M97、M101、M103などと呼ばれる天体で、その多くは、のちに遠くの銀河や星の集団だと分かった。1782年、彼は科学アカデミーの会員になり、やがて天体の位置を載せた国の暦の編集も任された。
1791年、革命のさなかのフランスで、新しい長さの単位を地球の大きさから決めることになった。北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1を1メートルとする。そのために、北のダンケルクから南のバルセロナまで、パリを通る子午線の一部を三角測量で測る。仕事は二人に分けられた。北の長い区間はドランブル、南のロデーからバルセロナまでの区間がメシャンである。南のほうが短いが、山が多く、国境を越えてスペインに入る。もとは王党派の天文学者カッシーニ4世が担うはずだったが、革命の事業に加わることを拒んだのだった。
1792年6月、メシャンはパリを発った。苦難が次々に襲った。教会の塔に登り、目印の旗を立て、遠くの地点を器械でのぞく。革命下の田舎で、それはひどく怪しい振る舞いだった。彼は何度も群衆に取り囲まれ、敵の回し者ではないかと疑われた。バルセロナ近郊では、友人の屋敷で水をくみ上げる機械の操作を手伝っていて、跳ね返った棒に打たれ、骨を折り、頭を打って、何か月も寝込んだ。右の腕は完全には元に戻らなかった。
1793年、フランスとスペインが戦争に入ると、彼は敵国の人間になり、バルセロナから出られなくなった。器材を取り上げられかけたが、スペインの学者たちがかばった。同じ年の暮れ、恐怖政治のパリでは、彼とドランブルは測量の委員から外された。共和国への献身が足りない、という理由である。送金は途絶えた。彼がイタリアを回ってようやくフランスへ戻れたのは、1795年だった。
もう一つ、誰にも言えない苦しみがあった。バルセロナで、彼は二か所で緯度を測った。町を見下ろすモンジュイックの丘の城塞と、泊まっていた宿である。二つの値が、合わなかった。差は角度で約3秒、距離にして約100メートルにあたる。当時の器械の腕からすれば、無視できない食い違いだった。彼はこの事実を公表せず、報告には都合のよいほうの値だけを使った。そして生涯それを苦にした。手紙には、この呪われた緯度が自分を追い回す、という嘆きがくり返し出てくる。自分の腕が信じられなくなり、それを誰にも打ち明けられなかった。
今日の目で見れば、食い違いは彼の不注意のせいではなかった。光が大気で曲がる度合い、器械の癖、山の重さが地面の鉛直の向きをわずかに狂わせること。当時はまだ、測定の誤差というものの扱い方そのものが十分に確立していなかったのである。彼はそれを知らずに死んだ。
1795年にひとまず定められていたメートル(メートル法の制定)は、1799年、二人の測量の結果をもとに長さが確定し、白金の原器が作られた。メシャンは栄誉を受け、パリ天文台の長になった。それでも彼は納得しなかった。1803年、彼は測量をスペインのさらに南、地中海のバレアレス諸島まで延ばすため、再び旅立った。表向きの理由は子午線の弧を延ばすことだったが、本当は自分の測定を確かめ直したかったのだと考えられている。
1804年9月20日、メシャンはスペイン東岸のカステリョン・デ・ラ・プラナで、黄熱病のため死んだ。60歳だった。測量の途中だった。
彼の残した記録を整理したドランブルは、あの食い違いに気づいた。ドランブルもそれを公表せず、書類に封をして天文台に残し、後の人の判断にゆだねた。この経緯が広く知られるようになったのは、歴史家ケン・オールダーが2002年の著書『万物の尺度』で詳しく追ってからである。
こうして決まったメートルは、地球の本当の大きさから見ると、およそ0.2ミリ短い。その一部は地球の形の見積もりの誤りにより、一部はメシャンの測定にさかのぼる。だが長さは直されなかった。基準にとって大事なのは、完全に正しいことよりも、動かないことだからである。メートルを柱とする度量衡の仕組みはその後ヨーロッパに広まり、1875年のメートル条約で国際的な約束になった。いま世界で使われている1メートルの中に、バルセロナで苦しんだ一人の天文学者の時間が刻まれている。