エニグマの解読
概要
ポーランドの研究を引き継ぎ、機械で機械の暗号を解いた。従事した数千人は戦後30年、この仕事について話すことを許されなかった。
場所
52.00°N -0.74°E · イギリス・バッキンガムシャー
関わった人(1)
アラン・チューリングAD1912年6月23日–AD1954年6月7日 · 解読本文
エニグマは、ドイツ軍が使っていた暗号機である。見た目はタイプライターに似ていて、キーを押すと別の文字のランプが点く。中にある数枚の回転する円盤が、キーを押すたびに一つずつ回り、同じ文字を打っても毎回違う文字に変わる。どの円盤をどの順に入れるか、初めの位置をどうするか、前面の差し込み盤でどの文字の組を入れ替えるか。その設定は毎日変わり、組み合わせの数は天文学的になった。ドイツ軍は、この暗号は破れないと考えていた。
最初に破ったのは、ポーランドだった。ドイツとソ連に挟まれたポーランドは、隣国の通信を読むことに国の存亡をかけていた。1932年、暗号局の若い数学者マリアン・レイェフスキは、フランスの情報機関がドイツ人の協力者から手に入れた資料と、数学の置換の理論を組み合わせて、エニグマの配線を割り出した。彼と同僚のイェジ・ルジツキ、ヘンリク・ジガルスキは、毎日の設定を探す方法を考え、1938年には設定を機械で探す装置を作った。ボンバと呼ばれた。

1939年7月、ドイツの侵攻が迫るなか、ポーランドはワルシャワ郊外の森でイギリスとフランスの担当者に会い、エニグマの複製と解読の方法をすべて渡した。イギリス側は、ここまで進んでいたことに驚いたという。その5週間後、ドイツ軍がポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まった。
イギリスの暗号解読の拠点は、ロンドンの北西、ブレッチリー・パークという屋敷に置かれた。数学者、言語学者、チェスの名人、クロスワードの得意な人が集められた。その一人がアラン・チューリングである。数年前に、計算とは何かを数学で定めた論文を書いていた(「計算可能な数について」)。チューリングはポーランドの考えを発展させ、より強力な解読機を設計した。ボンブと呼ばれるこの機械は1940年から動き始め、同僚のゴードン・ウェルチマンの工夫を加えて、数を増やしていった。

機械が探すには、手がかりが要った。エニグマには、どの文字も自分自身には変わらないという性質があった。これは、暗号文のどこに、どの言葉が隠れているかを絞り込む手がかりになった。ドイツ軍の運用にも癖があった。毎朝同じ書式で送られる天気予報、決まり文句で終わる報告、何も起きていないことを伝えるだけの電文。こうした決まった言葉を当てはめて、その日の設定を探した。
いちばん手こずったのは、ドイツ海軍の暗号だった。大西洋で輸送船団を襲うUボートの通信である(大西洋の戦い)。1941年、イギリス海軍は拿捕したUボートなどから暗号書を手に入れ、解読が進んだ。だが1942年2月、Uボートの暗号機に円盤が一枚増やされると、その年の暮れまでほとんど読めなくなり、船の被害が急に増えた。解読が戻ると、船団はUボートの待ち伏せを避けて進めるようになった。

解読で得た情報は「ウルトラ」と呼ばれ、ごく限られた人にしか知らされなかった。情報を使いすぎれば、ドイツに暗号が破られたと気づかれる。そのため、偵察機をわざと飛ばして、偶然見つけたように見せかけることもあった。解読が戦争を何年縮めたかについては、2年ほどとする見方があるが、はかる方法が無く、数字には幅がある。
ブレッチリー・パークで働いた人は、終戦のころには1万人近くになり、その4分の3ほどが女性だった。機械を動かし、電文を書き写し、結果を整理した。全員が秘密を守る誓いをしていた。戦後もこの仕事は国家の秘密とされ、1970年代に公にされるまで、多くの人が夫や妻、子どもにも、戦争中に何をしていたかを話さなかった。

チューリングは戦後、計算機の研究を続けたが、1952年、当時は罪とされていた同性愛で有罪となり、ホルモン療法を強いられた。1954年に41歳で死んだ。2009年にイギリス首相が政府として謝罪し、2013年には死後の恩赦が与えられた。ブレッチリーでは、別のドイツの暗号を破るために電子式の計算機も作られた。こうした経験は、戦後の計算機の時代へつながっていく(ENIAC)。