ライト兄弟の初飛行
概要
12秒、36メートル。翼を大きくすることでもエンジンを強くすることでもなく、操縦の問題として解いた。新聞はほとんど報じなかった。
場所
36.06°N -75.71°E · アメリカ合衆国・ノースカロライナ州
関わった人(1)
ライト兄弟AD1867年(兄ウィルバー。弟オーヴィルは1871年)–AD1948年(弟オーヴィル。兄ウィルバーは1912年) · 飛行本文
19世紀の終わり、空を飛ぶ機械はまだ夢だった。気球と飛行船は浮かぶことができたが(飛行船)、空気より重い機械が自分の力で飛び、思うところへ向かうことは、誰にもできていなかった。ドイツのリリエンタールはグライダーで2000回以上滑空してみせたが、1896年、突風にあおられて墜落し、死んだ。
オハイオ州デイトンで自転車屋を営む兄弟が、その死の知らせを読んでいた。兄ウィルバーと弟オーヴィル(ライト兄弟)。牧師の家に生まれ、どちらも大学には行っていない。印刷所を開き、自転車の流行に乗って店を出し、自分たちで設計した自転車を作って売っていた。1899年、ウィルバーはスミソニアン協会に手紙を書き、飛行についての資料を送ってもらっている。

資料を読んだ兄弟は、先人たちが二つの問題に力を注いできたことに気づいた。機体を浮かせる翼と、前へ進ませるエンジンだ。三つ目の問題がほとんど手つかずだった。空中で機体の釣り合いをとり、思う向きへ曲がる、つまり操縦だ。自転車に乗る人が体を傾けて曲がるように、飛ぶ機械も乗り手が絶えず釣り合いをとらなければならない。兄弟は、そこを先に解くべきだと考えた。
鳥が翼の先をねじって旋回するのを見て、二人は翼全体をたわませて左右の揚力を変える仕組みを考えた。細長い紙箱をひねっているときに思いついたと伝わる。1900年からノースカロライナ州のキティホークの砂丘へ通い、グライダーで試した。気象局の資料を調べて、風が強く一定で、柔らかい砂があり、人目の少ない場所を選んだのである。

ところが1901年のグライダーは、計算どおりの揚力を出さなかった。原因は、先人たちの作った揚力の表にあった。兄弟は自分たちで測り直すことにする。その秋、店の奥に長さ2メートルほどの木の箱と送風機で風洞を作り、金属板を切って作った200種類ほどの小さな翼を、自転車の部品を使った天秤で一つずつ測った。翌1902年のグライダーには動く方向舵をつけ、千回近く滑空して、三つの軸で機体を操る方法を身につけた。
残るはエンジンだった。自動車用のエンジンは重すぎ、注文に応じてくれる会社も無かった。店の職人チャーリー・テイラーが、6週間ほどで軽いアルミ鋳物のエンジンを作り上げた。12馬力ほど。プロペラは船のスクリューの理論が当てにならず、兄弟は回転する翼と考えて自分たちで理論を作り、設計した。

1903年12月14日、硬貨を投げて勝ったウィルバーが最初に挑んだが、機首を上げすぎて失速し、わずかに壊した。修理を終えた17日の朝は、風が強く、凍えるほど寒かった。10時半ごろ、今度はオーヴィルが腹ばいで乗り、木のレールの上を走り出した機体が浮き上がった。12秒、36メートル。人が乗った動力機が、自分の力で浮かび、操られて、出発点と同じ高さの地面に降りた最初の飛行とされる。
近くの救難所の隊員ジョン・ダニエルズが、据えてあったカメラのシャッターを押した。カメラに触れたのは初めてだったという。浮き上がった瞬間の機体と、横で走り出したばかりのウィルバーを写した一枚が、いまも残っている。その日、兄弟は交代で4回飛び、最後はウィルバーが59秒、260メートルを飛んだ。直後に突風で機体が転がり、壊れた。この機体は二度と飛んでいない。

新聞はほとんど報じなかった。わずかに出た記事も、事実と違う中身だった。9日前、政府とスミソニアンの資金を受けたラングレー教授の機体が、首都の川で墜落したばかりだった。名のある学者にできないことを、田舎の自転車屋が成し遂げたとは、信じにくかったのである。
兄弟は翌年からデイトン郊外の牧草地で飛行を続け、1905年には30分以上飛んで旋回し、八の字を描けるまでになった。それでも、特許と契約を守るために公開を控えたため、とくにヨーロッパでは「飛ぶ人か、嘘つきか」と疑われた。1908年8月、ウィルバーがフランスのル・マン近くで公開飛行を行い、観衆の前で自在に旋回してみせた。疑いは一日で消えた。初飛行から5年がたっていた。

その翌月、アメリカ陸軍の前で飛んだオーヴィルの機体が墜落し、同乗の中尉が死んだ。動力機の事故で死んだ最初の人になる。ウィルバーは1912年に腸チフスで死に、オーヴィルは1948年まで生きた。キティホークの初飛行から24年後にはリンドバーグの大西洋単独無着陸飛行で大西洋が越えられ、オーヴィルが死ぬころには、ロケット機が音速を超えていた。