概要
1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆の実験は、予想を超える規模になり、日本の漁船の乗組員も死の灰を浴びた。1955年7月9日、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、ロンドンで、11人の科学者や知識人が署名した宣言を読み上げた。署名には、その年の4月に亡くなったアインシュタインが死の直前に書いた署名と、日本の湯川秀樹の名もあった。宣言は、核兵器による戦争は人類を滅ぼしうるとして、各国の政府に、争いを戦争でなく平和的な手段で解くよう求めた。この呼びかけから、東西の科学者が核の危険を話し合うパグウォッシュ会議が生まれた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(2)
アインシュタインAD1879年3月14日–AD1955年4月18日 · 署名した湯川秀樹AD1907年1月23日–AD1981年9月8日 · 署名した本文
1945年の広島・長崎への原爆投下のあと、核兵器はさらに強力になった。1949年にソ連が原爆を持ち、アメリカは原爆の何百倍もの威力を持つ水素爆弾を開発した。1954年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆の実験は、科学者の予想をはるかに超える規模になり、遠く離れた海にいた日本の漁船の乗組員が、降り注いだ放射性の灰を浴びた(第五福竜丸)。核戦争は、都市を壊すだけでなく、人類を滅ぼしうると、多くの人が感じはじめた。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、ラジオで核戦争の危険を訴え、東西の陣営を超えて科学者が声を上げるべきだと考えた。彼は宣言の文案を書き、アインシュタインに送った。アインシュタインは1955年4月11日、署名に同意する手紙を送り、その1週間後に亡くなった。宣言には、物理学者のマックス・ボルン、フレデリック・ジョリオ=キュリー、化学者のライナス・ポーリング、日本の湯川秀樹ら、11人が名を連ねた。多くがノーベル賞の受賞者だった。
1955年7月9日、ラッセルはロンドンで記者会見を開き、宣言を発表した。宣言は、自分たちはどの国、どの陣営の一員としてでもなく、人類という種の一員として語ると述べた。核兵器を使う戦争は人類を終わらせうる。人類が戦争を捨てるか、それとも人類が終わるか。そう問いかけ、各国の政府に、目的を世界戦争によって達することはできないと認め、争いを平和的な手段で解くよう求めた。宣言は、自らの人間性を心に留め、そのほかのことは忘れよう、と呼びかけている。
宣言の呼びかけに応えて、1957年、カナダのパグウォッシュという村に、アメリカ、ソ連、日本など10か国の科学者22人が集まった。東西の対立のさなか、政府の立場を離れて核兵器と戦争の危険を話し合う、パグウォッシュ会議の始まりである。会議の場で育った科学者どうしのつながりは、のちの部分的核実験禁止条約や核拡散防止条約の下地を作ったといわれる。1995年、会議と、宣言の署名者で最後まで生きていた物理学者ジョセフ・ロートブラットに、ノーベル平和賞が贈られた。