張衡の地動儀
概要
揺れの方角を示す装置。都で誰も感じないうちに西方の地震を示し、数日後に知らせが届いたと『後漢書』は伝える。現物は残っていない。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
張衡AD78年–AD139年 · 製作本文
張衡は78年、南陽郡の名家に生まれた。若いころは都に出て学び、詩人として知られた。洛陽と長安の二つの都をうたった長大な賦は、10年をかけて書き上げたと伝えられる。やがて朝廷に招かれ、天文と暦を司る太史令の職に就いた。水の力で回り、天球の動きを示す渾天儀を作り、天は卵の殻のように地を包んでいるという宇宙の考えを説いた。
後漢の時代、地震は人々をおびえさせる出来事だった。天は君主の政治が乱れると、災いで警告を与える、と考えられていた。張衡の生きた時代にも、都や各地でたびたび大きな地震が起き、そのたびに朝廷は災いの意味を論じた。遠い地方で起きた地震が都に伝わるまでには、何日もかかった。

132年、張衡は地震の起きた方角を示す装置を作った。5世紀にまとめられた『後漢書』の張衡伝が、その姿を伝えている。精銅で鋳た酒壺のような形で、直径は8尺。表面は篆書の文字や山、亀、鳥獣の模様で飾られていた。外側には八方に向けて8匹の竜が付き、それぞれ口に銅の玉をくわえている。その下には、8匹の蟾蜍(ひきがえる)が口を開けて上を向いて座っていた。
地面が揺れると、揺れが来た方角の竜の口が開いて玉が落ち、下の蟾蜍の口に音を立てて入る。その音で人は地震に気づき、どの竜の玉が落ちたかで、揺れの来た方角を知る。一つの竜が動けば、ほかの7匹は動かない、とも書かれている。

伝はこう続ける。あるとき、一つの竜が玉を吐いたが、都では誰も揺れを感じなかった。都の学者たちは、装置は当てにならないと噂した。ところが数日後、西の隴西から早馬が着き、地震があったと知らせた。人々はその不思議に感服し、以後、地震の起きた方角を史官に記録させるようになったという。
中の仕組みは、ほとんど書かれていない。壺の中央に「都柱」と呼ばれる柱があり、そのまわりに八方へ通じる道があって、仕掛けが組まれていた、とあるだけである。都柱を振り子と見るか、揺れで倒れる柱と見るかで、後世の復元は分かれてきた。20世紀半ばに中国で作られた振り子式の復元模型は、切手や教科書に載って広く知られるようになったが、実際に記述どおりの働きをするかは疑問視されてきた。21世紀に入ってからも、別の仕組みによる復元が試みられている。

現物は残っていない。後漢の末に都が焼かれる戦乱(董卓の洛陽焼き討ち)を経て、装置の行方は記録から消える。博物館にあるのは、すべて後世の復元模型である。装置が本当に遠くの地震を感じて方角を示せたのかは、確かめようが無いまま残っている。
張衡は宮廷で順風だったわけではない。天子の側近くに仕える宦官たちが権力を握る中で、彼は政治の乱れを率直に論じ、疎まれた。地動儀を作ってから数年後の136年、地方の河間国へ宰相として出され、豪族の横暴を取り締まって評判を得た。139年、都に呼び戻されて間もなく、61歳で没している。

それでも、地震を「天の警告」として論じるだけでなく、揺れそのものを道具で捉えようとした試みとして、この装置は特別な位置を占める。地震の揺れを記録する近代的な地震計が生まれるのは、19世紀の後半になってからである。明治の日本で、外国人の学者たちが世界で初めての地震の学会を作ったのは1880年のことだった(地震を学ぶ会)。
張衡は、予言書で未来を占う当時の流行を、根拠が無いと退けた人でもあった。天文と文学と工作を一人でこなしたその名は、いまでは月の裏側のクレーターや小惑星にも付けられている。同じ時代には、宦官の蔡倫が紙の作り方を改良していた(蔡倫の製紙法)。後漢の都・洛陽は、新しい道具が次々に生まれる場所だった。