インド大三角測量
概要
東インド会社が、インド全土を三角測量で測る事業を始めた。ラムトンが起こし、ジョージ・エベレストが引き継いだ。半世紀以上かかった。測量士は、マラリアと虎と、そして半トンの経緯儀を担いで山を登った。死者が多く、ある年には隊員の半数が死んだ。1852年、計算室の主任ラダナート・シクダールが、ある山の高さが世界最高であると算出した。地元にチョモランマとサガルマータの名があったが、測量局は前任者の名を付けた。エベレスト本人は、それに反対した。
場所
13.08°N 80.27°E · インド・タミル・ナードゥ州(旧マドラス)
本文
1802年4月10日、南インドのマドラス(いまのチェンナイ)の郊外で、東インド会社の軍人ウィリアム・ラムトンが、一本の直線を測り始めた。長さはおよそ7.5マイル、12キロあまりである。使ったのは100フィートの鋼鉄の鎖で、それを木の台に載せて水平に保ち、気温を測りながら、温度による伸び縮みを補正して、一区間ずつ慎重に延ばしていった。この一本の線の正確さが、その後のインド全土の測量の正確さを決めることになる。
ラムトンが始めたのは、インド亜大陸の全体を三角測量で測るという途方もない事業だった。三角測量では、山の頂や高い建物を結んで三角形の網を作り、その角度を精密に測る。一辺の長さが分かっていれば、あとは計算で他の辺の長さが次々に求まる。フランスの革命政府が子午線を測ってメートルを決めたのと同じ方法である(メートル法の制定)。のちに「インド大三角測量」と呼ばれるこの事業は、正式には1871年まで、実際には20世紀に入っても続いた。

事業の背骨になったのは、インドの南の端カニャークマリから北のヒマラヤの麓まで、およそ2400キロを南北に貫く「大子午線弧」だった。これは単なる地図作りではなかった。違う緯度で子午線の長さを精密に測れば、地球がどれほど扁平なのかを求められる。地球が完全な球でないことは知られていたが、その形はまだ正確には分かっていなかった。インドの測量は、帝国の事業であると同時に、地球の形を測る科学の事業でもあった。
角度を測る大経緯儀は、重さが約半トンもあった。イギリスで作られて船で送られたが、最初の一台は途中でフランスの軍艦に捕らえられ、のちに返されてようやくインドに届いた。測量点は見通しのきく高い場所でなければならないので、この器械を十数人がかりで担ぎ、山の上へ、高い櫓の上へ、寺院の塔の上へと運び上げた。1808年には、南インドのタンジャーヴールの大寺院の塔に吊り上げる途中で綱が切れ、経緯儀が壁にぶつかって壊れた。ラムトンは何週間もかけて、自分の手でそれを直したと伝えられる。

平らな土地では遠くが見通せないため、高さ数十メートルの櫓を組んだ。寺院の塔を使えば手間は省けるが、聖なる場所に外国人が器械を持ち込むことは、しばしば住民との摩擦を生んだ。見通しを作るために、森の木を何キロにもわたって切り開かなければならないこともあった。そのうえ、マラリア、コレラ、暑さ、虎や蛇がいた。測量隊は熱病で次々に倒れ、多くの死者を出した。隊員の大半はインド人で、測量の助手、器械の担ぎ手、森を切り開く労働者、計算をする人々がいたが、彼らの名前のほとんどは記録に残っていない。
ラムトンはこの事業に20年を捧げ、1823年、測量の途中、インド中部で亡くなった。後を継いだのは、彼の助手だったジョージ・エベレストである。1790年に生まれたエベレストは、厳格で気難しく、部下には容赦がなかったと伝えられる。自身も繰り返し重い病に倒れ、療養のために何度もイギリスへ帰っては、また戻ってきた。

エベレストは、測量の正確さを大きく引き上げた。器械を改良し、光が大気の中で曲がる屈折の補正を工夫し、昼間のかげろうを避けて夜に強い信号の灯を目標にして角度を測るやり方を取り入れ、膨大な計算の手順を体系立てた。1830年には、インドの測量の総責任者である測量総監の地位に就いた。
1830年代から、測量は北のヒマラヤの麓に達した。ここで、新しい難題が現れた。山に登れないのである。ネパールもチベットも、イギリス人が国に入ることを認めていなかった。

測量士たちは、インド側の平原から、150キロから240キロも離れた峰々の角度を測るしかなかった。それほど遠いと、大気による光の屈折は大きく、しかも時刻や気温や湿度によって変わる。補正はきわめて難しかった。
計算を担っていたのが、カルカッタの計算室だった。その主任を務めたのが、ベンガル出身の数学者ラダナート・シクダールである。1813年に生まれ、カルカッタのヒンドゥー・カレッジで学び、19歳で測量局に計算手として採用された。エベレストは彼の数学の力を高く評価していた。1852年ごろ、シクダールは、それまで「第15峰」と呼ばれていたヒマラヤの一つの峰の観測値を計算し、それが世界で最も高い山であることを突き止めたとされる。シクダールが上司の部屋に駆け込んで「世界で最も高い山を見つけました」と告げたという有名な話があるが、この逸話の裏づけは確かではない。

1856年に公表されたこの峰の高さは、2万9002フィート、約8840メートルだった。2020年に中国とネパールが共同で発表した最新の値は8848.86メートルで、その差は9メートルほどにすぎない。150キロ以上離れた平原から、19世紀の器械と手計算で導いた値である。
山の名をめぐっては、いまも議論が続いている。1856年、エベレストの後任の測量総監アンドリュー・ウォーは、この山を前任者の名にちなんで「マウント・エベレスト」と呼ぶことを提案した。測量局は地名に現地の呼び名を使うことを方針としていたが、ウォーは、この山には確立した現地の名が見つからないと説明した。しかしチベットには、チョモランマという名があった。18世紀の初めに康熙帝の命で作られた清朝の地図にも、この山を指すとみられる名が記されている。ネパールの「サガルマータ」という名は、20世紀になってから広まったものだとされる。
そして、エベレスト本人が、自分の名を付けることに反対した。1857年、ロンドンの王立地理学会の席で、彼は、地元の人々には発音できない名であり、インドの文字でも書き表せない、という趣旨の異議を述べた。それでも1865年、学会はこの名を正式に採用した。皮肉なことに、いま英語で一般に呼ばれる山の名の発音は、エベレスト本人の姓の読み方とも違うと言われる。この山に人が初めて立つのは、およそ百年後のことである(エベレスト初登頂)。
測量は、思いがけない発見ももたらした。ヒマラヤの近くで、鉛直線が山の重さに引かれて傾く量を測ると、計算で予想されたよりずっと小さかったのである。山の重さが、見かけほど効いていない。1855年、イギリスのプラットと天文学者エアリーが、それぞれこの謎に説明を与えた。
山脈の下では地殻が厚くなって深く根を張っており、軽い地殻が、重いマントルの上に浮かぶように釣り合っている、という考えである。これはアイソスタシー(地殻均衡)と呼ばれ、地球の内部の構造を実測から読み解いた最初の例の一つになった。やがて大陸が動くという考え(大陸は動く)や、のちのプレートの理論へとつながっていく。
測量が進むにつれて、インドは地図の上で隅々まで把握されていった。それは支配の道具でもあった。税を取る土地の広さ、軍隊を動かす道、鉄道と電信を敷く経路、そして国境。歴史家マシュー・エドニーは、イギリスにとって地図はインドを知り、そのことによってインドを所有するための装置だった、と論じている。測量が北の山々に向かっていたころ、インドではインド大反乱が起き、会社の支配はイギリス国王の直接の統治へと置き換えられた。

シクダールは測量局を退いた後、ベンガル語での教育や女性の教育を進める活動に関わり、女性向けのベンガル語の雑誌を出した。在職中、測量のために住民がただ働きをさせられることに抗議して役人と争い、罰金を科されたこともあると伝えられる。1870年、56歳で世を去った。世界で最も高い山を数字の上で見つけた男の名は、その山には付いていない。