チャコ・キャニオンの大集落
概要
砂漠の峡谷に、数百室・五階建ての石造建築が十数棟並んだ。数十キロ先まで真っ直ぐな道が延び、太陽と月の周期に合わせた建物の向きが残る。
場所
36.06°N -107.96°E · アメリカ合衆国・ニューメキシコ州
本文
いまのアメリカ合衆国ニューメキシコ州の北西部に、チャコ・キャニオンという浅い峡谷がある。標高はおよそ1900メートル。雨は年に200ミリほどで、冬は氷点下に冷え込み、夏は焼けつく。畑を作るのに向いた土地ではない。だが10世紀から12世紀にかけて、ここに北米の先住民の歴史で類を見ない建物群が建った(祖先プエブロ)。
考古学者が「大きな家」と呼ぶ石造の建物で、峡谷の中だけで十数棟ある。最大のプエブロ・ボニートは半円形の平面に部屋が600を超え、4階から5階建てだったと考えられている。砂岩を薄く割って、模様を描くように丁寧に積んである。その上に漆喰を塗っていたので、完成した壁の積み方は外からは見えなかった。

いつ建てられたかは、かなり細かく分かる。乾燥した気候のおかげで梁の木が残り、その年輪を数えると、木が切られた年が一年単位で出るからである。プエブロ・ボニートは9世紀の半ばに建て始められ、2世紀半にわたって増築が重ねられた。いちばん盛んに建てられたのは、11世紀から12世紀の初めである。
建物の屋根と床を支える梁には、松やトウヒの丸太が使われた。峡谷のまわりに森は無い。年輪を調べると、木は70キロほど離れた山々から運ばれていた。使われた木は20万本を超えると推定されている。車輪も荷を運ぶ家畜も無い社会で、すべて人が担いで運んだことになる。

峡谷からは、まっすぐな道が四方へ延びている。幅は9メートル前後あり、崖にぶつかれば岩に階段を刻んで越える。北へ延びる道は50キロ近く続き、行き先には特別な建物も町も無い。荷を運ぶにしては広すぎ、まっすぐすぎる。儀礼のための道だったという説が有力である。
建物の向きにも意味がある。いくつかの大きな家は、壁や軸が夏至や冬至の太陽、あるいは18.6年の周期で動く月の出入りの方向に揃っている。近くのファハダ・ビュートの岩には渦巻きの線刻があり、夏至の正午に一筋の光がその中心を射抜く。これらがどこまで意図されたものかは議論があるが、天体の動きを長い年月かけて観察していたことは確かだとされる。

峡谷には遠くからの品も集まった。トルコ石の細工は大量に見つかり、メキシコの熱帯にしかいない鮮やかなコンゴウインコの骨も出ている。円筒形の壺からは、カカオの成分が検出された。チャコは、はるか南の世界ともつながっていた。
大きな家の中や脇には、「キヴァ」と呼ばれる円形の半地下の部屋がいくつもある。中でも直径20メートルに近い大キヴァは、大勢が集まる儀礼の場だったと考えられている。いまのプエブロの人びとも、キヴァを祭祀の場として使い続けている。

不思議なのは、部屋の数に比べて暮らしの跡が少ないことだ。かまどや生活のごみが少なく、常に住んでいたのは数千人、あるいはもっと少なかったと見る研究者が多い。ふだんは少ない人数で管理し、決まった時期に周辺から大勢が集まって祭りや交易を行う。巡礼の中心のような場所だったと考えられている。ただし、誰が指導し、どう人を動かしたのかは、文字が無いため分からない。
プエブロ・ボニートの奥の部屋からは、手厚く葬られた人びとの骨が見つかっている。2017年に発表された研究では、そのうち何人もが母方の血筋でつながり、300年ほどにわたって同じ一族がそこに葬られていたことが分かった。少なくとも一つの家系が、長く特別な地位を保っていたことになる。

遺跡が外の世界に知られたのは、1849年にアメリカ陸軍の測量隊が通りかかってからである。19世紀の終わりには発掘と称して遺物が大量に持ち出され、それをきっかけに1907年、国の保護地に指定された。1987年には世界遺産になっている。
12世紀の半ば、長い干ばつが南西部を襲った。新しい建物は建たなくなり、人びとは北のアズテック遺跡やメサ・ヴェルデへ移っていった。13世紀の終わりには、そちらも放棄される。人びとは南へ東へと移り、いまのホピやズニ、リオ・グランデ川沿いのプエブロの人びとの祖先になった。彼らは今も、チャコを祖先が通り過ぎた場所として語り伝えている。その子孫たちが、17世紀にスペインの支配に立ち向かう(プエブロの反乱)。同じころミシシッピ川の流域では、カホキアの繁栄が最盛期を迎えていた。